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「とろい」「要領が悪い」と言われること(1/17修正加筆) [メンタルヘルス]

今年もよろしくお願いします。

最近、妊娠8ヶ月目に入りました。産休まであと残りわずか。
お腹のなかにいる赤ちゃんは日々筋肉と脂肪がついて力強くなっているのか、
時間に関係なく暴れまくっています。
暴れられると痛いですが、元気に育ってくれている証拠なので、安心します。
ここまで来ると、出産経験者で経過が順調だった方や知識のない方は「無事
に出産できるのでは」と思うのかもしれませんが、何があるか分からないのが
妊娠出産。母からは、私を出産した頃、同じ病院に入院していた母子が妊娠
中毒症で亡くなった話を何度も聞いていたので、何事もなく出産できれば・・・
と日々祈るような気持ちです。

さて、本題に入りますが、時々、タイトルのようなことについて考えます。

私は社会に出るまで、周囲から「とろい」「要領が悪い」という言葉をよく
言われました。
親に言われるのは我慢できるとしても、同級生(特に、女子)に言われるのは
我慢できない。
スクールカーストとでもいうのでしょうか、学校生活では同級生に比べて自分
の方が立場が弱いことを何となく自覚していたので、言い返すことはありません
でしたが。

皆にうまく合わせられない時に、「とろい」「要領が悪い」という言葉がよく
出てきたのですが、時々睨まれたりすると「あんたがいると迷惑なんだよ」
「役立たず」「出ていけ」と言われているかのような気持ちになり、同級生と
同じ場にいることがいたたまれなくなりました。
私ではありませんが、小学5年生の時の学校行事で、
歩くのが遅い男子をある女子が「何やってるんだ。早く歩けよ!」とドスの
きいた声でどなりつけるのを何回か聞いた時は大変不快な気持ちになりました。
自分がどなられたわけではないのですが、当時のクラスには彼女のような性格
の女子がいくらでもいたので、彼女たちの存在が恐ろしく感じたものです。

このような経験が何度も繰り返されると、「とろい」「要領が悪い」人は社会では
役に立たないのかと考えるようになってしまうのですね。
さすがに、今は言われませんが、ネット掲示板などで「とろい」「要領が悪い」こと
に対する悩みを読むたびに心が痛みます。

「とろい」「要領が悪い」と言われることは、言われる側にとっては自己肯定感を
ズタズタに引き裂かれるようなものです。
私は何度も引き裂かれているので、女性不信になってしまい、一時期は女友達が
いなくてもいいと考えていた位です。今も潜在意識ではそう考えているところが
あるので、「ふよこさんがいてくれてよかった」と言ってくれる女性は大変ありが
たいですね。

ただ、未来の我が子をどう育てるかを考えるたびに、かつて「とろい」「要領が
悪い」と言われたことをふっと思い出してしまい、腸が煮えくり返る思いです。
未来の我が子も私の遺伝を半分受け継ぐでしょうから、ある程度大きくなったら
「とろい」「要領が悪い」ことでいじめられないか、不安な気持ちが常にあります。
子ども時代は子どもらしく過ごせるのが一番ですが、どうしたらいじめられないか
を考えるとあらゆる側面から徹底的に対策しなければという焦りもあります。
生まれる前から、そんなことを考えていても仕方がないのは分かっていますし、
いじめっ子にしないのが大事だということも勿論理解していますが、将来出会う
かもしれないであろう陰湿な子供やその親の存在を考えると・・・。

「とろい」「要領が悪い」は裏を返せば、マイペースさ、経験不足のために慎重で
あること、何らかの原因で動作が鈍くなっていることの顕れですが、それらを言う人
(特に、女性)はそこまで考えが及ばないのでしょうか。
女性批判だと言われるかもしれませんが、私の経験では、思考力に乏しい女性は
学力が高くても「とろい」「要領が悪い」原因を突き詰めようとせずに、その場の
感情だけで言い立てたりするから厄介です。
このような女性の共通点といえば、肩書きやステータスにこだわる点
や損得勘定で人を判断する点にあるので、
彼女たちの考えでは、「とろい」「要領が悪い」人は社会では役に立たない、潜在的
にお金を稼げない人だと考えているから、排除しようとしているのでしょうか。
これは子どもも大人も関係ありません。

「とろい」「要領が悪い」の反対である「行動が早い」「要領が良い」は、確かに、
公私ともに評価されるポイントになっているように思います。
学校時代からそのように評価されている人は社会の役に立ちそう、潜在的なレベルで
お金を稼げそう(お金持ちになれそう)と考えられているように思います。

しかし、この二つを備えた人であっても社会の役に立ち、お金を稼げている人は
どれだけいるのか疑問です。
「とろい」「要領が悪い」と言われ続けた私でさえ、平均的な日本国民以上の収入
はあるわけですから、「とろい」「要領が悪い」イコール「社会の役に立たず、
お金を稼げない」というわけではないのだと思います。

そして、「行動が早い」「要領が良い」特性は永遠に続くものではありません。
個人差はありますが、身体の自由が利いて気力体力がみなぎっているからこそ、この特性を
持てるのではないでしょうか。
身体の自由が利くことそのものでさえ、当たり前のことではありません。
多くの人はおそらく「自分は病気にならない」「介護を必要としない」と思っているの
かもしれませんが、年齢を重ねて病気になり介護が必要な状態になれば、行動は当然遅くなり、
要領よく動けなくなるのではないでしょうか。

このように考えるからこそ、過去に「とろい」「要領が悪い」と言ってきた女子(女性)たちの
傲慢さには何年経っても怒りがおさまることがありません。


話が横道にそれますが、
仕事でいえば、営業は「行動が早い」営業マンは確かに喜ばれます。
私も普段の仕事では民間企業の営業担当者と接点があるので、お願いしたことに
対して早く対応してくれる営業担当者はありがたいです。
しかし、事務処理が雑だと営業担当者への信頼が揺らいでしまうことがよくあります。
特に、請求書の日付が昨年度の日付になっているとかあり得ないミスが相次いだ場合。
それならば、「とろくても、行動が少しくらい遅くても、要領が悪くても、正確に
処理してくれる」営業担当者の方がありがたいと思ってしまいます。
職場と相手先が離れていればいるほど、書類を受け取ってはミスを連絡して、再度
書類をもらって・・・の繰り返しで数日かかるのはザラにあることですから。
これは営業担当者だけでなく、事務職にも言えることですが。

おそらく、多くの人は学校生活でも仕事でも「行動が早い」「要領が良い」のは
誰にでも喜ばれることを暗黙のうちに身につけていると思います。
ただ、この二つはケースバイケースであって、そのまま個人、延いては組織全体の
利益に結びつくわけではありません。(そんなこと分かっているよとツッコミが入り
そうですが。)
研究開発や教育(特に、特別支援教育)など、長期的な視点でじっくりと取り組まないと結果が
見えてこないものは「行動が早くて、要領が良い」こと以上に、忍耐強さを必要とします。
私は教育関係の職場にいますが、現場の教員は「とろくて、要領が悪い」と思われている人でも、
仕事に真剣に向き合っている人であれば、評価されているように感じます。

あと10、20年もすれば、仕事のロボット化が進むと言われていますが、もしそうなったら、
「行動が早くて、要領が良い」ことが評価の大きな要素であった仕事は、誰がやっても同じと
考えられている(イコール機械化が進む)ためにますます失われていくのではないでしょうか。
逆に、忍耐強さを必要とする仕事の価値がますます上がっていくのではないでしょうか。

そんな時代がやってきたら、子どもも大人も「行動が早くて、要領が良い」ことに対する価値観が
変わり、「とろくて要領が悪い」ことの意味を真剣に考える、もしくは、メリットを見出そう
とする人が増えてくる可能性もあると考えます。
実際に、そのような人が増えれば、「とろくて要領が悪い」人を排除する動きは減るのかな・・・と
楽観的な見方もしています。


・・・かつて関わりのあった女性たちにここで文句を並べてもしょうがないのは
分かっていますが、どうしても我慢できなかったので、書いてみました。
支離滅裂な文章ですが、お許しください。

他に何か気づいたことがあれば、加筆修正します。

※1月17日午前11時32分、太字部分を修正加筆しました。
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未来の我が子に言いたくないNGワード [育児]

大変ご無沙汰しております。

今年夏に妊娠が分かり、今月で妊娠7ヶ月目に突入しました。
残り1ヶ月で産休です。
妊娠経過は順調ですが、大きくなったお腹を抱えた状態で長時間歩くのが
大変になってきました。
妊娠イコール出産と思われがちですが、出産までに何があるか分からないので、
無事に出産を迎えれば・・・と祈る日々です。

妊娠が分かって以来、自分の過去の経験を振り返りつつも「自分がこんな悲しい
思いをしてきたから、未来の我が子にはこんな悲しい思いはさせたくない」という
感情が強くなってきました。

このブログでも何度も書いていますが、聴覚障害について考えたり自分と向き合う
のは大変疲れること。
他人と比較して今の自分には何ができないのか?足りないのか?を考えることが
発端となっていますが、大変疲れるものです。

また、私自身が幼少時から現在に至るまで、他の健常者や聴覚障害者と比較されては
「××さんは○○ができるけど、ふよこさんはなんでできないの?」と言われ続けて、
トラウマになっているのもあり、家族や親戚以外の人たちを意識するだけでブルーな
気持ちになってしまうのです。
そんなわけで、私の中ではNGワードとして確立されている「なんで、こんな ことできないの?」
「なんで、こんなこと知らないの?」
という言葉は
未来の我が子に対しては絶対に使いたくありません。

そのような言葉を絶対に言われたくないし思われたくないからこそ、今まで他人より
物事を多く知っていなければならない、人並みにできなければならないという意識が
強くありました。
しかし、年齢を重ね、自分の得意領域、不得意領域を自覚するようになるうちに、
そのような言葉を平然と言う人に強い怒りを感じずにいられなくなりました。
相手が健常者であっても、聴覚障害者であってもです。

何年経とうが、そう簡単に忘れないもので(普段は忘れていることが多いのですが、
何かの弾みでふっと思い出してしまう)、目の前にいない相手に対して
「あなたはこんなことを言っているけど、あなたはどうなの?」と罵りたくなることが
あります。
今更ですが、「どんなことならできて(知っていて)当たり前なのか」を尋ねてみたい
です。おそらく、完璧に答えられないでしょうが。

それほど「なんで、こんなことできないの?」「なんで、こんなこと知らないの?」は
心の中で思ってはいけないうえに、口に出していけないことなのです。
私自身の経験でいえば、言われる回数が多ければ多いほど、追い詰められるだけでなく、
周囲にいる人々が敵に見えてしまいます。

口に出さなればいいのではと思う方もいらっしゃるでしょうが、心の中で思っている
ことは何らかの形で言動として現れるものですから、絶対に思うべきことではないです。
そもそも何ができて当たり前かは個々人の生活習慣や価値観に大きく左右されるもので
あり、人によって違うものだからです。

余談になりますが、小学校時代の同級生で、上記のようなNGワードを頻繁に使っていた
人がいます。その同級生の親が数年前に脳梗塞で倒れ、半身不随で日々の介護を必要と
する生活を余儀なくされているという話を最近聞きました。
私の祖母も脳梗塞を発症し、半身不随になった(結局は、大往生しましたが)ので、
脳梗塞を発症した場合の大変さは容易に想像できますが、この同級生とその母親には
NGワードで散々苦しめられたので、過去のこととはいえ、同情する気にもなれないですし、
何も言葉をかける気にもなれません。
彼らは何事においても「できて当たり前」の基準が高い人で、事あるごとに私と親を見下す
言動をよく聞かされました。
介護が必要な状態になれば、「なんで、こんなことできないの?」「なんで、こんなこと
知らないの?」が日常において通用しない生活になっていると思います。

日頃何気なく、上記のNGワードを平然と言っている方は多いかもしれません。
かつての同級生とその母親が今の状況をどう受け止めているかはわかりませんが(余計な
お世話と言われそうですが)、自分に何か不利な出来事がふりかからないと、平然と言える
神経がいかに恥ずかしいかは感じないのかもしれません。

未来の我が子がどのような子ども(障害の有無も含めて)として生まれ、育つかは未知数
ですが、間違っても、先述したNGワードは使いたくありません。
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一部の非正規職員が感じる、待遇に対する不満 [雇用]

3年前に一度公開しましたが、諸事情から非公開にした記事です。
公開しますので、まだ読んでいない方で興味がありましたらご覧ください。

--------
今の職場は、正規職員と非正規職員で構成されており、非正規職員の数が正規職員の
それをわずかに上回る状態。

非正規職員は、職場こそ違うが、うちの自治体で長く働いている人が少なくなく、分野に
よっては、自治体独特の規則に精通している人も多いことから、今の職場では重要な戦力
として位置づけられている。

・・・

だが、それは、あくまでも表面上の話。

実際は、非正規職員のなかには、仕事の待遇に対するドロドロの不平不満を心のなかに
溜め込んでいる人もいる。

非正規職員を何となく選び、気づいたら長年非正規職員をやっていた・・・という人ほど、
「こんなはずでなかった」「正規職員と同じ仕事をしているのに、なぜ昇格昇給できないの?」
などネガティブな感情が心のなかを渦巻いているように思う。
その一方で、家庭の諸事情や定年退職後の就職先確保、子育てが一段落したことを理由
に非正規職員を選んだ方々は、割り切って仕事をしている方々がとても多いように思う。

前者に属する方々の一部からは、時たま、何気ない会話で不平不満を耳にしてしまうことがある。
具体的には、自分の待遇に対する不満を正規職員の仕事ぶりのそれにすりかえるなど。
たとえば、「業務連絡のメールの書き方が気に入らない」「整理の仕方が気に入らない」
「自分だったら、こうやるのに」とか。

不平不満を言う側も、非正規職員の待遇に関する権限を持つ役職者などには言えないから、
言いやすい人や話しやすい人を選び、言っているのだろうが、言われる側としてはたまった
ものではない。
待遇が良くないことからくる将来への不安は、容易に想像できるが。

・・・

現状、自治体では、正規職員減少にともなって、雇用契約を何度も更新する形で何年も働いて
いる非正規職員が増えているが、そんな非正規職員も「公務員」として一括りにされる。
民間企業なら、非正規でも、実務を通して蓄積した技術・知識を正社員としてのキャリアアップ
につなげられるケースが多いが、自治体だと、非正規で働いてもそこで培った技術・知識は
その自治体でしか通用しない。
人によっては、自治体の実務経験で培う技術・知識を「汎用性が低い」という見方をする人もいる。
さらに、副業は禁止。
何か不祥事でも起こせば、正規職員同様、マスメディアに大きく取り上げられる。
ブログや日記に書くことも、内容によっては、公務員ということで叩かれ、下手するとマスメディア
に取り上げられる事態に発展しかねない。
私も3年前に正規職員として採用されて以来、ブログや日記に何を書くか思い悩むことが多くなった。
今は、常識の範囲内で書けば問題ないだろう・・・という認識でいるが。
自分で選んだ職業とはいえ、息苦しさをたまに感じることがある。
「超」の字がつくほど几帳面で、目的より手順を守ることに重きを置いて生きている人でないと
公務員は勤まらないのではないか?と思ってしまうほどだ。

そのような思いがあるからこそ、職場にいる一部の非正規職員が待遇に対して感じる思いは
容易に想像できる。

うちの自治体は、非正規職員の複雑な思いに応えるかのように、福利厚生制度を充実させようと
努力する姿勢がこの3年間でますます強くなった。
それでも、非正規職員の思いに完全に応えられるかといえば、限度があるように思う。

このため、自治体では、最初の雇用時に、長く非正規職員として働いてもらう可能性を想定し、
非正規職員として働く強い意志を本人に確かめておく必要性があるように思う。
正社員就職へのつなぎの職業として捉えられていた昔とは違い、一就職先として
捉える人も多くなっている現在だからこそ、必要。

相当の覚悟があって働いている人でないと、不平不満は出にくいと考えるからだ。
確かめたうえで、もし意志が強くないのであれば、他の道を薦めることも、最終的には本人だけ
でなく周囲のためになるのではないかと考える。
・・・と言いつつ、雇用需要が減少しているこのご時世では、正規非正規関係なく、一度退職したら
次の職を確保するのが大変難しい状態。。。

本題からは離れてしまうが、どのような身分であれ「問題なく働ける」ことが一種のステータス
になりつつあるのかもしれない・・・ことを、私は日々感じる。

- - - - -
6/17 16:00 一部表現(太字部分)を追加しました。
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発声・発音訓練に関して思うこと [雑感]

今年もよろしくお願いいたします。

昨年は環境の変化や様々な出来事が積み重なり、気づけば半年以上もブログから遠ざかっていました。
そのような状況にもかかわらず、アクセスしてくださっている方の存在には大変ありがたく感じます。

さて、今回は、発声・発音に関する記事です。
考えるのがつらいので、支離滅裂な上に、愚痴めいた記事になってしまいますが・・・。

過去に、発声・発音が不明瞭なことで受けた不利益(http://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2011-08-28)、発声・発音訓練が明瞭な発声・発音を必ずしも可能にするわけではない理由(http://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15)を書いてきました。

夫は難聴者とはいえ、明瞭に話せる方です。
彼も幼児期に発声・発音訓練を受けた経験があったので、発声・発音訓練の話は時々しますが、
夫の話を何回か聞く限り、「どこ」で「どの専門家」に適切な訓練を受けたかが訓練の成否に大きく関わってきているのではないかということを強く感じるようになりました。

私も夫も幼少期を過ごしたのは30年近くも前。
今と違い、インターネットがなく、口コミや本、テレビ(NHK教育の番組)が主な情報源。
私の場合は、難聴が判明してすぐに病院から地元のろう学校)を紹介され、そこで指導を受けましたが、発声・発音訓練に関してはゆるかった記憶があります。
「それならば、他の教育機関で指導を受けるべきだったのではないか」と思う方もいるかもしれません。
が、当時の乏しい情報源では、他にいい教育機関で指導を受ける考えが思い浮かばず、地元のろう学校で教育を受けるしか方法がなかったのです。
一方、夫の方はというと、口コミで評判のいい専門家の存在を知ったことで、上京して数か月間ホテル暮らしをしてまで指導を受けられたこと、地元のろう学校が発声・発音訓練では徹底していたことで、大きな成果をあげることができました。
当時の聴力や義母の執念もある程度は関係あったのかもしれませんが、適切な教育機関で適切な専門家に指導を受けたことが明瞭な発音につながっていることだけは確かです。

過去に得た知識も交えつつ、いろいろ突き詰めて考えていくと、発声・発音訓練を指導する立場である専門家は難聴児の将来に対して強い責任をもってやっているのかという思いが常によぎります。

私の場合、専門家が無責任だったのかもしれない。あるいは、能無しだったのかもしれない。
発声・発音訓練は現在は言語聴覚士の資格を持つ方しか指導できないようですが、どこまで考えて指導しているのかが気になるところ。

職場の人々もそうですが、世間の人々はこういう深い事情があることを知らないために、難聴者の発声や発音についてあれこれ言いたがるものですが、それだけはやめてもらいたい。

特に、つらい気持ちになるのは、同じ場所で同じ空気を味わっている人が自分より発声・発音が明瞭な場合、「なんで○○さんは明瞭なのに、ふよこさんは不明瞭なの?」というふうに周囲から見られること。

うちの自治体は、表面上は人それぞれ個性を大事にします、人権を大事にしますとうたいながらも、本音では「普通、平均の人」を求める雰囲気が強い。
障害福祉課等の一部窓口の対応についていろいろ情報を聞きますが、障害者に対して大変失礼な対応をしているにもかかわらず!
なんでこんな奴が採用されているんだ!と思うことも少なくありません。
(それ言ったら、私も「なんでこんな奴が採用されているのか」と思われているのかもしれませんね)
採用試験にもそれが表れているのか、難聴であっても口頭で明瞭に話せる人を強く求める。
私は筆談で採用試験に臨みましたが、筆談のスピードが遅いと不合格になるのではないか、バカにされるのではないかと内心緊張したものです。
(私の筆談スピードはかなり速い方ですが、発声・発音訓練を受けた人が話す速さには到底かなわないだろう・・・ということをどうしても思ってしまいます。)
それもあってか、過去に受けた発声・発音訓練の不十分さをどうしても思い出してしまうのかもしれません。

自治体に入って昇格も経験したことで、うちの自治体は難聴者でもちゃんと能力を見てくれているんだということがわかりました。
しかし、上位役職者から言われた「ふよこさんは事務処理能力は大変高いが、コミュニケーションには課題がある」という言葉がどうしても頭から離れず、こんなことを言われるくらいなら、過去に、発声・発音訓練をちゃんと受けるべきだったのではないかということも考えてしまいます。

それ位、結婚もした、昇格もした、給料も増えた、生活には困っていない・・・今が恵まれた環境であっても、発声・発音が不明瞭なことで受ける不利益から頭が離れることはないのです。

給料があがらない人も多くいるなかで、そんなことで悩むのは贅沢な悩みなのでしょうが。

そんなわけで、今年は現状に感謝しつつ過ごしたいところです。
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長距離通勤と仕事 [雑感]

前回の記事から5カ月近くが経過しますが、この間、引っ越しや異動を経験しました。

今年2月に都内から出身地である市に戻ったことで、職場に近くなり通勤が楽になったか
と思いきや、4月の異動で家から職場までの距離が遠くなり長距離通勤を余儀なくされて
います。
通勤距離も時間も、昨年都内に住んでいた頃とあまり変わらないですが、片道1時間半
かけての通勤は私の身体には堪える部分があります。

片道1時間半以上の通勤を長年続けている人にとっては何ということはないのかもしれま
せんが、片道1時間以内の通学・通勤を長年続けてきてこの先もそれが永遠に続くと
思いこんでいた私には厳しいですね。

片道1時間半以上の通勤だと、当然、仕事や生活でうまく工夫していかないと、可処分
時間や睡眠時間が削られます。
睡眠時間は翌日に影響が出ない程度にキープできても、可処分時間の捻出が難しくなり
ました。
独身時代は片道1時間半以上の通勤を全然想像したことがなかったので、長距離通勤の
乗り切り方について試行錯誤しながらも考える日々です。
電車では途中駅から座れるのでスマートフォン操作や読書に明け暮れますが、どちらか
といえば、ただじっと読むより手を動かすのが好きなほうなので、通勤時間がもったい
なく感じるのです。
次の異動は数年後になる予定。
早くも、「家に近い場所に異動させてくれれば・・・」と毎日思っては諦めての繰り返しです。

ちなみにですが、今の職場はまわりを山に囲まれているため自然豊かで環境良好です。
少し歩いたところには、畑が広がっているのが見えます。
田舎暮らしをしたい人には最高の場所かもしれませんが、交通の便は悪い、買い物する
場所が遠い、店の数が少ないなど、仕事や生活をしていくには大変不便な場所です。
日常生活の足として、車が欠かせません。

実は、私の家からなら1時間以内で通える職場はたくさんあります。
しかし、前職場の管理職(当時)の頭のなかで下のような公式ができあがっていたから
でしょうか、

「どのような仕事をするにしても、電話応対がかかせない。」
      ↓
「電話応対ができない聴覚障害者の場合、聴覚障害者に関係ない用件で
 他人が電話を受けたとしても、表面上、他人の業務量に負担がかかる。」
      ↓
「それならば、聴覚障害者は人数が多く余裕のある組織で仕事をする必要がある。」

人数にゆとりがあり誰か一人がかけても日々の仕事が回っていける組織として、
異動する前から、今の職場を推されていたのです。

電話応対できるかどうかを基準にして異動先の選定に結びつける発想は短絡的な気が
しますし、疑問が残る部分も多々ありますが・・・。

今の自治体の財政を考えると、電話応対ができない私には、最悪、今の職場しかない
状態なのかもしれない・・・、ぜいたく言っている場合じゃないなとも思っています。

ちなみに、今担当している仕事には、中小企業との取引も含まれています。
メールやファックスのやり取りに日数がかかるのはざらなので、メールやファックスで調整が
うまくできない場合に最後の頼みの綱となるのが電話です。
その電話ですが、仕事であっても、私は他人に頼みたくありません。
「電話ができない」ことを個性ととらえず、「自分ひとりでは何もできない」かのように
拡大解釈する健聴者がひとりいますが、その方のおかげで不快な思いをしたくないのです。
たかが電話かもしれませんが。
この4月から電話リレーサービスプロジェクトが始まったおかげで、サービスを利用して
自分の都合だけで電話をかけられるようになり(※)、今は他人に気を使わなくていい
のが助かっていますが、今後はどうなることやら。

※まだ相手の都合で電話をかけられる段階ではない(というか、相手の都合でかけられる
 サービスをまだ誰もが思いついてない?)ので、相手にしてみたら迷惑なところは
 あるかもしれませんが。

電話リレーサービスが今以上に普及して社会的認知度が上がれば、聴覚障害者でも電話
応対できることが証明され、仕事の幅が広がるかなと期待しています。
いや、実際にそうなってほしいんですけどね!
ただ、何年もかかりそうなので、一日でも早く、家から1時間以内に通える場所に異動させ
てほしいと思っていますがね。
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何かに熱中してストレスを発散させることは、いじめの解決につながらない [メンタルヘルス]

先輩女性からのいじめに酷く苦しめられた一昨年は、
上位役職者やリーダー的立場にある人に相談に行って話をするたびに、プライベートの
過ごし方として「熱中できることや興味を持てることを見つけなさい」ということを言われて
いました。

「文章に訴えることで、解決するしかない」と思い、これまでの経過を整理しつつ先輩女性の
異動を願う内容の手紙を書いて彼らに読んでもらった結果、先輩女性の異動という形で、長かった
いじめに幕を引くことができました。
手紙は5000字以上に及ぶ長文だったので、読んだ彼らとしては、重い腰をあげざるを得なかった
のでしょう。

が・・・、私は今でも彼らが言うことに納得していません。
プライベートの過ごし方を彼らには全く話していないのに、プライベートの過ごし方を全面的
に否定されているようで嫌でした。
『熱中できることや興味を持てることがあれば、いじめで悩まない』というのが彼らの考え方の
ようですが、これはいじめられた経験のない人や世渡り上手な人の考え方です。
彼らは世渡り上手でいじめられた経験がないから、組織では上手くやっていけるのでしょうがね。
自殺を考えるほど深く傷ついた経験があれば、そんな考え方はしないはずです。
今思い出してもはらわたが煮えくりかえります。

私は社会に出るまでにたくさんのいじめを経験しています。
経験しているからこそ言えることなのですが、
何かに強く興味を持ったり熱中することはいじめられるストレスを発散する上では全然効果がありません。
むしろ事態が悪化するだけです。
ストレス発散を考える位なら、いじめの解決に全力を注ぐべきです。

以下、いじめの経験談です。(長い話になりますが、最後までお付き合いください)

私は学校のある平日がものすごく嫌いで、自分の好きなことに熱中できる土日や祝日、長期の休み
が待ち遠しかった位です。日曜日夕方になると、気分が憂鬱になり、バラエティー番組を見ながら
ゲラゲラ笑っていても何となく落ち着きませんでした。
複数人のいじめっ子と顔を合わせるのは大変な恐怖で、彼らからいかにして逃れるか、いかにして
接触しないかだけを考え、神経を集中させる日々。
休み時間中、両手をロープで縛られた状態で、右目に釘を入れられそうになり、失明するかもしれない
恐怖でいっぱいになった経験もあります。
(ここまでくると犯罪レベルです。教育委員会への直訴を親が考えたようですが、当時の校長が親を
脅し、事件をもみ消そうとしました。詳しくは分かりませんが、親に対して心ない言葉を浴びせたよう
です。)
大袈裟な表現かもしれませんが、当時の私の「生きる権利」はいじめっ子によって潰されたも同然です。

公立中学に通っていたこともあり、中学時代までは5科目の成績は学年上位でしたが、いじめる相手
が近くにいる、いじめる相手と同じ空気を吸っているという恐怖で、勉強には集中できませんでした。
本を読んでいても寝ていても、いじめる相手の顔がブワーッと頭に浮かんでくるのです。

本や参考書を読んでいても文字が目の前を素通りするだけなので、学力も思ったように伸びない。
苦手意識が強かった数学(算数)の図形問題を克服するにしても、集中力がすぐに散漫になってしまう
ので、克服できない。
モノの仕組みに興味や関心を向けられないことが原因なのか、理科がどうしても好きになれない。

将来はこうなりたいという願望はあったものの、当時の私は「いじめ」からいかにして逃れるかという
ことに向き合うのに精一杯で、頭の中で描く将来のイメージが灰色に見えたものです。
うつ状態にもなり、何か新しい事にチャレンジする気力もなくなりました。
こんな状態で高校に進学しましたが、本質を理解するのに必要な学力や集中力、暗記力、記憶力、
忍耐力を早い段階で身につけられなかったからか、入学後早い段階でつまずいてしまいます。
赤点を取った科目では「他の人がなぜ授業内容を理解してテスト問題が解けるのか」を不思議に思った
ほどです。
他の人にしてみれば、授業で学習したことをきちんと復習してテストに臨んだ・・・ただそれだけのこと
だったのでしょうが。
自分の考えを表現しようにも、本に書いてある文字が目の前を素通りするだけなので表現できるだけの
語彙や知識が身につかない。大変もどかしかった記憶があります。

結局、読書や勉強に集中できるようになったのは、社会人になってからです。
10代の貴重な時間を読書や勉強に割く方がいいのでしょうが、いじめからいかに逃れるかに全神経を
注力し過ぎるあまり、ムダな時間を過ごしてしまった感があります。
いじめられる恐怖に怯えることなく、読書や勉強に集中できることがどんなに幸せなことか。
人間関係のトラブルに巻き込まれることなく、受験を順調にパスして、就職も順調にできた人たちを
大変うらやましく感じたこともありました。

これを書くと「なぜ、いじめられることを気にしてたの」と思う人もいるでしょうが、当時はいじめに
ひたすら耐える方法しか思い浮かばなかったのです。
いじめる側や第三者の勝手な論理によって作り出された「いじめられる側が悪い」という言葉を
鵜呑みにしていた時期もありました。
かつては「いじめる相手に強く立ち向かえばいいじゃないか」とも言われましたが、私の場合、
言葉の暴力がほとんどだったので、執拗な相手に対しては強く立ち向かうことがいかに難しいか
を感じていました。

それでも・・・、なかには「いじめられる側が悪い」と思う人もいるのでしょうね。

今であれば、相手からの執拗ないじめをやめさせるために、長い手紙を書いて(権力のある人に)
圧力をかける、裁判を起こして慰謝料を請求する・・・など、知識と能力を駆使して相手と戦う方法を
選びますが。
もしくは、言葉で相手を徹底的に追い詰めるとか。

でも、正直なことをいえば、いじめはない方がいいです。
いじめは、程度こそ差はあれど、受ける側の「生きる権利」をまるごと潰します。
繰り返しになりますが、いじめを受けている側へのアドバイスとして、「興味あることや熱中できること
を見つけなさい」は意味を成しません。
確かに、興味あることや熱中できることを見つけたことで、いじめを乗り越えられた方もいますが、
このような方はほんの一握りです。
不登校や引きこもりになってしまい、社会に出られなくなった方もいます。
ここ数年は社会的影響力のある方(いじめられた経験のある方として有名なのが、プロボクサーの
内藤大助選手ですね)がいじめ体験談を語っていることもあり、彼らのいじめ体験談をまるごと
鵜呑みにしてアドバイスしている方もいるようです。
現在進行形でいじめられている人に何かしらアドバイスをしたいと考えるのであれば、
いじめを乗り越えた彼らの心理的なプロセスに着目し、洞察することで、アドバイスをしていただきたい。
それができなければ、アドバイスをされても迷惑です。

厳しいことを書き連ねてきましたが、数えきれないほどのいじめを受けた経験があるからこそ、
そのようなことを強く思うのです。

私もそうなのですが、いじめられた経験があり、いじめられる側の心理が深く理解できる、そして、
どのような行動を取れば心理的に立ち直れるのか・・・という具体的なアドバイスを現在進行形で
いじめられている人は望んでいると思うのです。

ただ、残念ながら、そのようなアドバイスができる人材はなかなかいません。

繰り返しになりますが、いじめが起きたら、上位的立場にいる方はいじめを解決することに全神経を傾ける
べきです。
組織や集団を運営・管理している以上、他の課題を抱えている状況でいじめを解決するのは面倒に
感じられることでしょう。
まさかとは思いますが、上位的立場にいる方には「あんないじめがあることを人事に知られたら、
俺達の人事評価が下がってしまう」と思っている方も多いのではないかと思います。
いじめがないことを前提に、組織や集団を運営・管理することを考えているのであれば、その考えを
今すぐにでもあらためていただきたい。
いじめがあることを前提に運営・管理し、いじめが発生した場合はいじめの起こるプロセスを分析し
原因を抽出する努力、全面的な解決に向けた努力はして欲しいものです。
(私の場合、上位的立場の人達がこの努力を怠っていたので、長い手紙を書きましたが・・・)
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阪神大震災から19年。 [雑感]

今月17日で、阪神大震災から19年が経ちます。

3年前の東日本大震災は記憶してても、阪神大震災となると、記憶が薄れてしまっている方は
多いのではないでしょうか。
(もし気分を害した方がいたら、ごめんなさい)

と、いうことで、今回は阪神大震災をテーマにした記事です。

私は関東地方出身ですが、阪神大震災が発生した当時、建物がぺちゃんこに潰されている
映像や火が燃え広がる映像をニュース番組で何度も繰り返し目にする度に大きなショックを
受けたことを今でも記憶しています。
阪神大震災を大々的に報じた新聞記事や週刊誌は何度も繰り返し読みました。
震災発生まで知らなかった兵庫県の地理も、地図を何度も眺めることで「神戸市にAという区
があってこの区は○○市寄り」「△△市には××という町がある」ことが理解できるレベルに。

私の周囲で、関西に縁のない方は、「阪神大震災といえば、神戸」をイメージされる方が
ほとんどですが、被害が特に大きかったのは、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、淡路島
あたりですね。
(他の地域でも被害が大きかったと聞いています。曖昧な書き方でごめんなさい。)

時々、被災者の体験談を読む方法で、「阪神大震災」というキーワードを少しでも頭の片隅に
残し続けていたつもりでしたが、神戸近郊出身である夫との結婚を機に、神戸近郊へ行く
機会が増え、阪神大震災があったという事実を強く意識するようになりました。

夫の実家は「震度7」を記録した地域にあります。
夫も「震度7」の経験者。大けがをしたそうです。
もし夫があの時に死んでいれば、私は夫に出会えていなかったわけですから、運命とは
不思議なものですね。
ちなみに、近くの公園で地割れした写真が、今も市のデータベースに保存されています。
夫の実家に泊まった当初は夜寝ていても、
「この瞬間に大きな地震が起きたらすぐに逃げられるのだろうか」
「この周辺で亡くなった人はどのようなことを想いながら亡くなったのだろうか」
などと考えてしまい、なかなか寝付けない。
当事者ではないのに、かつて激甚な災害を経験した地域に身を置いているというだけで、
雑念が頭の中をぐるぐる回るのです。

神戸近郊は、19年前に大きな地震があったことを感じさせない位、完全に復興して
います。街並みもとても綺麗。
個性あるデザインの家が多く、インテリア関係のお店が関東地方の大都市に比べると
充実していること(私の気のせいかもしれませんが)から、生活を楽しむ余裕がある位
経済的に裕福な家庭が多いのかなと想像します。
(現在の神戸市東灘区を撮影した写真が手元にあるので、載せたいところですが、
ファイル容量が大きすぎて載せられません・・・。ごめんなさい。)

何事もなかったかのように暮らしている人たちがいるなかで、未だに、阪神大震災から
立ち直れていない人たちもいるのではと思うのです。
同じ市内でも、あまり被害を受けなかった人などは何事もなかったかのように暮らして
いるが、一度にたくさんの家族を失った人は心の傷を負ったまま・・・街を通るたびに
そんな印象を受けます。

関東地方の大都市でもし阪神大震災レベルの地震が起きたら、様々な面で完全に
復興できるのだろうかと考えますね。
支援の手が差し伸べられるにしても、健常者優先で、障害者は後回し・・・になる可能
性もあるのかなとネガティブなことを考えます。

あまりたいした記事ではありませんが、19年前に阪神大震災があったという事実を
忘れてほしくなくて記事にしました。

大地震発生時の聴覚障害者に対する支援も、気になるところですが、それは整理でき
次第、記事にします。
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「誰かの役に立てる」という確信 [メンタルヘルス]

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて、本題です。

ここ数日、「誰かの役に立てる」という確信は、何か行動をしたり継続させる上での強いモチベーションに
なるということに気づかされました。
どのような形であれ、自分が行動することによって「誰かの役に立てない」ことを確信している場合は、
何か行動する気になれないのです。

現在の私にとって気が進まないのは、同窓会や職場の飲み会、他人(※家族除く)との協働作業ですが、
根底には「自分が行動したところで、何になるんだ!?」「自分がいることで、何の役に立てるのか」という
ネガティブな感情がずっと渦巻いています。

学校時代の同窓会が立て続けに行われた昨年は、「欠席」の意思を表示し続けました。
同級生との楽しい思い出がほとんどないので、”過去の人達”になりつつある同級生と近況を報告し合ったり
思い出を懐かしむ気持ちが全くありません。
主催者側にしてみれば、会を催し参加者をひとりでも多く集めることで、過去の思い出を共有できる、人脈
作りにつなげられる、「会を催した」という事実が評価されるなど、美味しい事づくしなのでしょうが。
同窓会や飲み会に限ったことではありませんが、健聴者だけが集まる場で、参加者をとにかくもてなそうと
するサービス精神たっぷりの主催者には一度たりとも会ったことがありません。
これ書くと、「自分勝手なことを言うんじゃない」「じゃあ、あなたが催す側になればいいじゃないの」と言われ
そうですが、参加者、主催者のどちらの立場になるにしても、複数人の会話に加われないようでは、「あなたは
役に立たなくてもいい」「あなたはいなくてもいい」と言われているようなものですからね。

そして、他人との協働作業・・・。
具体的なことは書けなくて申し訳ないですが、現在の職場では、協働作業がとにかく多い(これ言うと、「どこ
でも同じようなもんだ」と言われそうですね)。
業務分担上の境界線が曖昧なせいか、自分ができることであっても、他人が先回りしてやってしまうことが
あります。
“気が利く””率先して行動できる”という行動は人事面ではプラスの評価につながりやすいので、これを意識
してか、先回りしてやってしまう人がいるのです。無意識のうちに気を利かせている、親切心のつもりでやって
いる人もいるのかもしれませんが、先回りされた側としては不快です。
最近は気が短くなってきたからか、不快な行動をされたら、顔は笑っていても「あなたたちができるんだったら、
私はいなくてもいいのね!」などと内心では不機嫌になります。
業務分担上の境界線をどこで引けるかどうかは、まとめる立場にいる人の資質に左右される要素が大きい。
彼らに人の能力を見極める力が足りないのか、適当に業務を割り振っている印象があります。
偉そうなことを言っていると思われるかもしれませんが・・・、
彼らは個々の業務に求められるスキルや知識を因数分解のごとくあぶり出す能力が低い印象。
知識の幅が狭く偏っていることからくるのか、平然と「○○さんに、こんなことができるの?」と言う人も。。。
このような人たちが上の立場にいることで、業務の割振り方次第では部下や同僚の「誰かの役に立ちたい」
という気持ちをつぶすのだ、ということを強く感じます。

私自身、昨年は「退職」の二文字が何度も頭を過ぎりました。
私を必要としてくれている人の存在を時々感じることで、何とか仕事は継続できていますが。

職場や何かの集まりに限らず、「誰かの役に立てる」という強い確信は、生きていく上で必要なことだと思うの
です。
例えば、幅広い知識があって話の引き出しが多く、ひとりひとりに合わせた話ができる。人を癒したり和ます
ことができる。料理が得意で、どのようなものでも美味しく作って食べさせることができる。・・・何でもいいの
です。とにかく、「あなたがいてくれて良かった」と思われれば「誰かの役に立てる」という強い確信が持てる
のです。
もしその確信がなければ、抜け殻の状態になってしまうでしょう。
一人一人、与えられる役割は違いますが、その役割を意識して行動できるかどうかが、「誰かの役に立てる」
という強い確信につながるだけでなく、円滑な人間関係の構築にも結びついていくのだと思います。
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考えや思いを言葉にしにくい [情報保障]

久々の記事です。建設的なことが書けなくて申し訳ありませんが、日々思っていることを書きます。

- - - - -
聴覚障害からくる制約について、日々考えはしますが、諦めモードに入ってきているからなのか、
最近は考えや思いを言葉にしにくいと感じます。
「諦めが肝心」とはいいますが、少しでも強い気持ちを持ち続けないと、今後、考えや思いを言葉
にできなくなる日がやってくるのではないか・・・そんな危機感を抱いています。

そのような日がいつかやってきた場合、考えられる”最悪の事態”は、自分が置かれている状況
に対して無頓着になり、自分の障害がどのようなものかを言おうにも思うように適切な表現が口を
ついてこない・・・といったものでしょうか。

たとえば、ノートテイクなどの情報保障を必要としているのに、なぜ必要なのかを健聴者に対して
適切な表現で言うことができなければ、情報保障を受ける権利を(健聴者によって)奪われてし
まうことがあり得るのではないかと思っています。
このブログでも以前に何度か書いてきた気がしますが(書いてない?)、聴覚障害について分か
ったつもりになっている健聴者ほど、タチが悪いです。現に、うちの自治体にこのような健聴者
がいますが、恐ろしさを感じます。なぜこういう思考回路になるのか?が分からない。
失礼な言い方ですが、存在自体が疎ましく感じます。
思ってはいけないことなのでしょうが、「早く消えろ!」と・・・。
このような健聴者に対しては、説明の仕方や反論の仕方についてこれまで頭を悩ませつつ、
何とか向き合ってきましたが、正直言うと、何か問題に直面しても、徹底的に話し合って解決したい、
分かってもらいたい気持ちはありません。
このような健聴者にエネルギーを費やせるほど、時間はありませんから。

私は、ノートテイクなどの情報保障が自由に受けられ、いつでもどこでも(相手の話が)分かることに
重きを置いていますが、私が何かをきっかけに自分の障害や情報保障の必要性を説明できなくなる
ほど能力が低下すれば、心ない健聴者に情報保障を受ける権利を奪われるのではないかということ
を危惧しています。こんなことを危惧するのは、内心では変なことだと自分では思っていますがね・・・。

本来は、健聴者にいちいち言わずとも、情報保障を受けられる環境が整っているべき。
どう言うかを考えることで、説明能力や表現力が鍛えられるという見方をする人もいるのでしょうが、
私としては「疲れる」という気持ちが一番大きいです。
健聴者にしてみれば、聴覚障害者の話を聞くのが「面倒くさい」「新たな視点を得るどころか、自分の
考えを否定された気分」なのでしょうが。

何も言葉に発せずとも、考えなくても、すんなりと受け入れられる状況がどんなに一番いいことか。
「言葉にしないと、伝わらないよ」と言われそうですが・・・、言葉にして何かを伝えようという気持ちが
強く持てるのは、相手に対する信頼感があってはじめてできること。

結局のところ、言葉にすることよりも、健聴者に何かを気付かせる、それしか方法がないのではない
かと思っています。
でも、何かを気付かせるには、聴覚障害者が何か命に関わる危険な事態に直面するか、命を落とす
など重大なことが起こらない限りないのでしょうね。
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面談をする時期が近づいてきて思うこと(愚痴) [仕事]

今年も、今後のキャリア開発について面談をする時期が間近に迫ってきた。

毎年この時期は今後のキャリアの方向性を一年で最も考える。
面談では、必ずといっていいほど、今後したい仕事など希望を尋ねられる。

民間企業にいた時は、「将来はXXXXという仕事をしたい。こういう仕事をするためのひとつのステップとして、YYYY事業部での仕事を希望したい。XXXX事業部のHPの業務分担表に記載されているZZZZの仕事を
してみたい。」という話を上位管理職に毎年していた。
「あなたにやれるわけがない」と思われていたかもしれないが、やる気と積極性は認めてもらっていたように
思う。
実際、仕事の幅は少しずつ広がっていったが、会社の事業動向からして、自分にできる仕事はAAAAが
限界だろうなということを常に思っていた。
経験できる仕事は、所属する部門の事業動向によって大きく変わっていく。
所属する部門に関係する事業が順調であれば、聴覚障害者でもチャレンジできそうな仕事は見つかる。
しかし、事業が衰退あるいは縮小していれば、なかなか見つからない。
仕事の多くは健聴者にまわされてしまう。

これは、自治体の世界でも同じだ。
どんな仕事をするにしても、電話ができることがある程度前提になっているからだ。
チャットやメールでやり取りができれば、多くの仕事をまわしてくれる民間企業(自治体)もあるのだろうが、
そのようなところは非常に少ない。
この現実に直面するたびに、溜息が出る。

面談を受けるにあたり、今後のキャリア開発や希望を、定められた様式に書かなければならない。
書く上で参考にするために、インターネットや書籍で記入例を調べてみたが、そこには必ずと言っていい
ほど「5年後の自分」「10年後の自分」「15年後の自分」が出てくる。
「人脈を活用して、BBBBという事業を立ち上げている。CCCCという企画を立案している。」といった表現
を目にするたびに、今の自分には人脈が作れるのだろうかということをまず思ってしまう。
民間企業時代も含めて、10年間勤務してきた経験からいえば、今の職場のほうが人脈をつくりにくい。
民間企業時代は、手話サークルを通して、同じ部門の人と知り合う機会があったため、飲み会などを通して、
仕事に関する情報交換ができた。
が、今の職場で勤務するようになってからは、飲み会などで感じるあの閉鎖的な雰囲気に溶け込めず、
飲み会にあまり顔を出さなくなった。(時間的な制約もあるが、気疲れするというのが一番大きい。)
一時、手話サークルを作ることを考えたが、家庭を持ったこと、遠距離通勤などで、話が進まない。
もともと、私が所属する自治体は、多くの健聴者が好みそうな『ある程度聴こえて(難聴の程度が軽い)』
『健聴者と同じように明瞭に話せて』『手話を必要としない』難聴者ばかりが採用されているため、
聴覚障害者職員同士で知り合う機会も全くなく、「手話なんて・・・」と手話の存在意義を見下す雰囲気が
依然として強いように感じる。
私自身、手話より口話が大事と考える方だが、過去の経験からして、手話を少しでも身につけたほうが
手話がある程度分かる健聴者とも知り合え、その結果として、人脈形成につながる部分はあると考える。

このような経緯もあり、自分にとって最適な人脈の作り方は何なのだろうか?どうしたら人脈は作れる
のだろうか?と常に考えてしまう。
人脈を作るだけでなく、維持するだけの努力もしなければ、仕事上必要な情報(特に、裏話)は自分には
もたらされないと考えるからだ。
財政危機に陥っている我が自治体の現状を考えると、人脈形成なんかしても、つながっている人に
相当の能力やスキルがなければ意味がないのではないか・・・と思ってしまうことはあるが。。。

人脈形成は諦めて、現状維持が大切なのかと考える今日この頃である。
面談でこんな話をしたら、「もっと前向きに考えろ!」と怒られそうだが・・・。

・・・長々と愚痴を書き連ねてしまいました。何が言いたいのかよく分からない文章ですみません。
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