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何かに熱中してストレスを発散させることは、いじめの解決につながらない [メンタルヘルス]

先輩女性からのいじめに酷く苦しめられた一昨年は、
上位役職者やリーダー的立場にある人に相談に行って話をするたびに、プライベートの
過ごし方として「熱中できることや興味を持てることを見つけなさい」ということを言われて
いました。

「文章に訴えることで、解決するしかない」と思い、これまでの経過を整理しつつ先輩女性の
異動を願う内容の手紙を書いて彼らに読んでもらった結果、先輩女性の異動という形で、長かった
いじめに幕を引くことができました。
手紙は5000字以上に及ぶ長文だったので、読んだ彼らとしては、重い腰をあげざるを得なかった
のでしょう。

が・・・、私は今でも彼らが言うことに納得していません。
プライベートの過ごし方を彼らには全く話していないのに、プライベートの過ごし方を全面的
に否定されているようで嫌でした。
『熱中できることや興味を持てることがあれば、いじめで悩まない』というのが彼らの考え方の
ようですが、これはいじめられた経験のない人や世渡り上手な人の考え方です。
彼らは世渡り上手でいじめられた経験がないから、組織では上手くやっていけるのでしょうがね。
自殺を考えるほど深く傷ついた経験があれば、そんな考え方はしないはずです。
今思い出してもはらわたが煮えくりかえります。

私は社会に出るまでにたくさんのいじめを経験しています。
経験しているからこそ言えることなのですが、
何かに強く興味を持ったり熱中することはいじめられるストレスを発散する上では全然効果がありません。
むしろ事態が悪化するだけです。
ストレス発散を考える位なら、いじめの解決に全力を注ぐべきです。

以下、いじめの経験談です。(長い話になりますが、最後までお付き合いください)

私は学校のある平日がものすごく嫌いで、自分の好きなことに熱中できる土日や祝日、長期の休み
が待ち遠しかった位です。日曜日夕方になると、気分が憂鬱になり、バラエティー番組を見ながら
ゲラゲラ笑っていても何となく落ち着きませんでした。
複数人のいじめっ子と顔を合わせるのは大変な恐怖で、彼らからいかにして逃れるか、いかにして
接触しないかだけを考え、神経を集中させる日々。
休み時間中、両手をロープで縛られた状態で、右目に釘を入れられそうになり、失明するかもしれない
恐怖でいっぱいになった経験もあります。
(ここまでくると犯罪レベルです。教育委員会への直訴を親が考えたようですが、当時の校長が親を
脅し、事件をもみ消そうとしました。詳しくは分かりませんが、親に対して心ない言葉を浴びせたよう
です。)
大袈裟な表現かもしれませんが、当時の私の「生きる権利」はいじめっ子によって潰されたも同然です。

公立中学に通っていたこともあり、中学時代までは5科目の成績は学年上位でしたが、いじめる相手
が近くにいる、いじめる相手と同じ空気を吸っているという恐怖で、勉強には集中できませんでした。
本を読んでいても寝ていても、いじめる相手の顔がブワーッと頭に浮かんでくるのです。

本や参考書を読んでいても文字が目の前を素通りするだけなので、学力も思ったように伸びない。
苦手意識が強かった数学(算数)の図形問題を克服するにしても、集中力がすぐに散漫になってしまう
ので、克服できない。
モノの仕組みに興味や関心を向けられないことが原因なのか、理科がどうしても好きになれない。

将来はこうなりたいという願望はあったものの、当時の私は「いじめ」からいかにして逃れるかという
ことに向き合うのに精一杯で、頭の中で描く将来のイメージが灰色に見えたものです。
うつ状態にもなり、何か新しい事にチャレンジする気力もなくなりました。
こんな状態で高校に進学しましたが、本質を理解するのに必要な学力や集中力、暗記力、記憶力、
忍耐力を早い段階で身につけられなかったからか、入学後早い段階でつまずいてしまいます。
赤点を取った科目では「他の人がなぜ授業内容を理解してテスト問題が解けるのか」を不思議に思った
ほどです。
他の人にしてみれば、授業で学習したことをきちんと復習してテストに臨んだ・・・ただそれだけのこと
だったのでしょうが。
自分の考えを表現しようにも、本に書いてある文字が目の前を素通りするだけなので表現できるだけの
語彙や知識が身につかない。大変もどかしかった記憶があります。

結局、読書や勉強に集中できるようになったのは、社会人になってからです。
10代の貴重な時間を読書や勉強に割く方がいいのでしょうが、いじめからいかに逃れるかに全神経を
注力し過ぎるあまり、ムダな時間を過ごしてしまった感があります。
いじめられる恐怖に怯えることなく、読書や勉強に集中できることがどんなに幸せなことか。
人間関係のトラブルに巻き込まれることなく、受験を順調にパスして、就職も順調にできた人たちを
大変うらやましく感じたこともありました。

これを書くと「なぜ、いじめられることを気にしてたの」と思う人もいるでしょうが、当時はいじめに
ひたすら耐える方法しか思い浮かばなかったのです。
いじめる側や第三者の勝手な論理によって作り出された「いじめられる側が悪い」という言葉を
鵜呑みにしていた時期もありました。
かつては「いじめる相手に強く立ち向かえばいいじゃないか」とも言われましたが、私の場合、
言葉の暴力がほとんどだったので、執拗な相手に対しては強く立ち向かうことがいかに難しいか
を感じていました。

それでも・・・、なかには「いじめられる側が悪い」と思う人もいるのでしょうね。

今であれば、相手からの執拗ないじめをやめさせるために、長い手紙を書いて(権力のある人に)
圧力をかける、裁判を起こして慰謝料を請求する・・・など、知識と能力を駆使して相手と戦う方法を
選びますが。
もしくは、言葉で相手を徹底的に追い詰めるとか。

でも、正直なことをいえば、いじめはない方がいいです。
いじめは、程度こそ差はあれど、受ける側の「生きる権利」をまるごと潰します。
繰り返しになりますが、いじめを受けている側へのアドバイスとして、「興味あることや熱中できること
を見つけなさい」は意味を成しません。
確かに、興味あることや熱中できることを見つけたことで、いじめを乗り越えられた方もいますが、
このような方はほんの一握りです。
不登校や引きこもりになってしまい、社会に出られなくなった方もいます。
ここ数年は社会的影響力のある方(いじめられた経験のある方として有名なのが、プロボクサーの
内藤大助選手ですね)がいじめ体験談を語っていることもあり、彼らのいじめ体験談をまるごと
鵜呑みにしてアドバイスしている方もいるようです。
現在進行形でいじめられている人に何かしらアドバイスをしたいと考えるのであれば、
いじめを乗り越えた彼らの心理的なプロセスに着目し、洞察することで、アドバイスをしていただきたい。
それができなければ、アドバイスをされても迷惑です。

厳しいことを書き連ねてきましたが、数えきれないほどのいじめを受けた経験があるからこそ、
そのようなことを強く思うのです。

私もそうなのですが、いじめられた経験があり、いじめられる側の心理が深く理解できる、そして、
どのような行動を取れば心理的に立ち直れるのか・・・という具体的なアドバイスを現在進行形で
いじめられている人は望んでいると思うのです。

ただ、残念ながら、そのようなアドバイスができる人材はなかなかいません。

繰り返しになりますが、いじめが起きたら、上位的立場にいる方はいじめを解決することに全神経を傾ける
べきです。
組織や集団を運営・管理している以上、他の課題を抱えている状況でいじめを解決するのは面倒に
感じられることでしょう。
まさかとは思いますが、上位的立場にいる方には「あんないじめがあることを人事に知られたら、
俺達の人事評価が下がってしまう」と思っている方も多いのではないかと思います。
いじめがないことを前提に、組織や集団を運営・管理することを考えているのであれば、その考えを
今すぐにでもあらためていただきたい。
いじめがあることを前提に運営・管理し、いじめが発生した場合はいじめの起こるプロセスを分析し
原因を抽出する努力、全面的な解決に向けた努力はして欲しいものです。
(私の場合、上位的立場の人達がこの努力を怠っていたので、長い手紙を書きましたが・・・)
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「誰かの役に立てる」という確信 [メンタルヘルス]

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて、本題です。

ここ数日、「誰かの役に立てる」という確信は、何か行動をしたり継続させる上での強いモチベーションに
なるということに気づかされました。
どのような形であれ、自分が行動することによって「誰かの役に立てない」ことを確信している場合は、
何か行動する気になれないのです。

現在の私にとって気が進まないのは、同窓会や職場の飲み会、他人(※家族除く)との協働作業ですが、
根底には「自分が行動したところで、何になるんだ!?」「自分がいることで、何の役に立てるのか」という
ネガティブな感情がずっと渦巻いています。

学校時代の同窓会が立て続けに行われた昨年は、「欠席」の意思を表示し続けました。
同級生との楽しい思い出がほとんどないので、”過去の人達”になりつつある同級生と近況を報告し合ったり
思い出を懐かしむ気持ちが全くありません。
主催者側にしてみれば、会を催し参加者をひとりでも多く集めることで、過去の思い出を共有できる、人脈
作りにつなげられる、「会を催した」という事実が評価されるなど、美味しい事づくしなのでしょうが。
同窓会や飲み会に限ったことではありませんが、健聴者だけが集まる場で、参加者をとにかくもてなそうと
するサービス精神たっぷりの主催者には一度たりとも会ったことがありません。
これ書くと、「自分勝手なことを言うんじゃない」「じゃあ、あなたが催す側になればいいじゃないの」と言われ
そうですが、参加者、主催者のどちらの立場になるにしても、複数人の会話に加われないようでは、「あなたは
役に立たなくてもいい」「あなたはいなくてもいい」と言われているようなものですからね。

そして、他人との協働作業・・・。
具体的なことは書けなくて申し訳ないですが、現在の職場では、協働作業がとにかく多い(これ言うと、「どこ
でも同じようなもんだ」と言われそうですね)。
業務分担上の境界線が曖昧なせいか、自分ができることであっても、他人が先回りしてやってしまうことが
あります。
“気が利く””率先して行動できる”という行動は人事面ではプラスの評価につながりやすいので、これを意識
してか、先回りしてやってしまう人がいるのです。無意識のうちに気を利かせている、親切心のつもりでやって
いる人もいるのかもしれませんが、先回りされた側としては不快です。
最近は気が短くなってきたからか、不快な行動をされたら、顔は笑っていても「あなたたちができるんだったら、
私はいなくてもいいのね!」などと内心では不機嫌になります。
業務分担上の境界線をどこで引けるかどうかは、まとめる立場にいる人の資質に左右される要素が大きい。
彼らに人の能力を見極める力が足りないのか、適当に業務を割り振っている印象があります。
偉そうなことを言っていると思われるかもしれませんが・・・、
彼らは個々の業務に求められるスキルや知識を因数分解のごとくあぶり出す能力が低い印象。
知識の幅が狭く偏っていることからくるのか、平然と「○○さんに、こんなことができるの?」と言う人も。。。
このような人たちが上の立場にいることで、業務の割振り方次第では部下や同僚の「誰かの役に立ちたい」
という気持ちをつぶすのだ、ということを強く感じます。

私自身、昨年は「退職」の二文字が何度も頭を過ぎりました。
私を必要としてくれている人の存在を時々感じることで、何とか仕事は継続できていますが。

職場や何かの集まりに限らず、「誰かの役に立てる」という強い確信は、生きていく上で必要なことだと思うの
です。
例えば、幅広い知識があって話の引き出しが多く、ひとりひとりに合わせた話ができる。人を癒したり和ます
ことができる。料理が得意で、どのようなものでも美味しく作って食べさせることができる。・・・何でもいいの
です。とにかく、「あなたがいてくれて良かった」と思われれば「誰かの役に立てる」という強い確信が持てる
のです。
もしその確信がなければ、抜け殻の状態になってしまうでしょう。
一人一人、与えられる役割は違いますが、その役割を意識して行動できるかどうかが、「誰かの役に立てる」
という強い確信につながるだけでなく、円滑な人間関係の構築にも結びついていくのだと思います。
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会話の輪に入れないつらさ [メンタルヘルス]

久々の記事投稿です。
今回は、私自身、思っていることをまとまりがない状態でパーッと吐き出したい目的での記事投稿なので、短文な上にまとまりがなく申し訳ありませんが、どうかご了承ください。ちなみに、これからは今回のような記事を書くことが多くなるかもしれません。

-----
聴覚障害者は健聴者の会話の輪に入れない。
それは、聴覚障害者にとって精神的に辛いこと。

・・・

それがどうしたというのか?
健聴者でも会話の輪に入れないことはあるのだから、会話の輪に入れなくても別に気にすることではないか?

・・・そんなことをまず思う健聴者は非常に多い。

でも、そのように思うこと自体が問題。

健聴者が会話の輪に加わっている最中、聴覚障害者はいないものとして扱われるからだ。
聴覚障害者の存在なんて、健聴者の頭の中からすっぽり抜け落ちてしまう。

確かに、聴覚障害者がほとんどいない所で、健聴者がたった一人の聴覚障害者の存在を意識して会話するとなると、健聴者は意識する余り、リラックスして会話できないというデメリットがある。

会話はどのような目的であれ、その場の雰囲気作りとしての役割も担っている。
また、何気ない会話を通して集団の雰囲気作りに貢献しているかどうかは、人間性に対する評価にもつながる。
これが職場の場合、協調性という観点での人事評価にもつながる。

なお、聴覚障害者を意識する余りリラックスして会話ができなくなる健聴者は、聴覚障害者に慣れているかどうかは関係ない。どちらかといえば、自分の話ばかりしたがる人に多いように思う。
また、そのような人はどこにいっても会話量が多いように思う。

なぜそんなに自分の話をしたがるのか。そんなに会話量に不満があるのか。

最近では、聴覚障害者の存在を全く意識しないで自分の話をしたがる人の存在が疎ましい。
「早くいなくなーれ」と何度思ったことか。

他人に責任転嫁をしてはいけないのでしょうが、原因を作ってる人を特定するたびに溜息をつく日々です。

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周囲の会話が必要以上に気になる [メンタルヘルス]

私は周囲の会話が必要以上に気になることがある。

人の話し声が"無意味な音"として聞こえる状態にいつも置かれていることが原因だと、自分では思っている。

今思えば、小学5年の頃から気にしていたように思う。

なぜその頃から気にするようになったのか。

この時期に、"得られる情報の量が周囲と比べて非常に少ない"という現実に直面してしまったことが一番大きい。
キッカケは、担任の先生が毎週発行している「学級だより」。

小学5・6年時の担任は、生徒間の何気ない会話や授業の合間の雑談、生徒の日記で印象に残った内容を、「学級だより」に記していた。
私も、日々の発言や日記に書いたことを「学級だより」で紹介してもらっていた。
紹介回数はかなりの数にのぼったように思う。
「学級だより」を通して、同級生の価値観や考え方を知ることができたのは当時の私にとって大変良い経験になった。

が、その半面で、イヤなことも多かった。
我がままと思われるかもしれないが、生徒間の何気ない会話や授業の合間の雑談で、自分の知らない話が書いてあるのを目にするたびに、耐えがたい苦痛を感じた。
そう、"得られる情報量が周囲と比べて非常に少ない"という現実に直面してしまったのである。
自分は完全に聞こえていないから、その現実は仕方がないことなのかもしれない。
でも、後からジワーッと襲ってきた"皆と同じ場で同じ空気を吸っていない"という孤独感には大変苛まれた。
「自分の存在は何なのか」
「自分は、幽霊のような存在なのか」
を考えることがよくあった。
孤独感が強すぎるあまり、ちょっとしたことで泣くこともたびたびあった。
大人になった今も、状況によっては孤独感を感じることが多い。

その「状況」は、

・職場で仕事をしている最中に、同じ島で机を囲む数人のにぎやかな話し声が聞こえてきた
・飲み会で、数人の笑い声が耳に入ってきた
・数人で話をしている時、話し手が、私が話を聞いていることを意識して喋っていない

という時が多い。(今思い出せる範囲では・・・)

なお、自分の特性について言えば、自分は言葉を明瞭に聞き取ることができないタイプの難聴。
近距離(1メートル位)から発された普通の大きさの声ならば、補聴器を装用することで、"声がしている"ことは分かる。
なんとなく聞こえてきた声の調子から「今のは、笑い声」「にぎやかな感じ」と雰囲気を察することはできる。
が、母音(一部)や多くの子音の聞き分けが大変難しいため、口元を見ないと、相手が何を言っているのか理解できない。

こんな感じなので、周囲の会話を意識することは、近距離における声の存在をまず意識することから始まる。

でも、「にぎやかな感じ」「笑い声だ」と気付いた時は、
話が最高潮に盛り上がっている最中であることが多く、何の話をしているのか周囲に聞くのは話の邪魔をしているようで気が引ける。
経験上、「あなたには関係のない話だから・・・」と教えてくれない健聴者が多かったこともあり、私が聞くことで「雰囲気を壊された」と感じる人もいるのではないかと思ってしまう。

周囲で交わされる会話は、本音がかなり多く含まれているため、聞くことによって
「話し手がどのような人なのか」
「話し手がどのようなことを考えているのか」
を知ることができるメリットがある。
が、聞こえない自分はそのメリットを享受できない。

周囲の会話が必要以上に気になりつつも、自由に聞けないのは大変もどかしい。
自由に聞けないことで、自分は周囲の人がどのような人なのか理解していないのではないか...と思うことがたびたびある。
たとえば、職場の飲み会は、数人で多くの情報を共有しているという認識のもとで進められるが、"ある情報を他人は知っているのに自分は知らない"という事態に直面するたびに、自分のいない所で勝手に話が進んでいるのではないかと勘ぐってしまう。
極端かもしれないが、人間不信に陥ってしまうこともある。
そういえば、最近は話を切り出すたびに「こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが・・・」という前置きを使うことが多くなった。
何か突っ込んだことを聞きたくても、気軽に聞けない。

どうしたら、周囲の会話を必要以上に気にしなくなるのか。
鈍感であることが最良の方法だとは思うが、あまり鈍感過ぎるのも考えもの。
こう考えると、どうすればいいのか分からなくなる。
答えはまだ見つかっていない。
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帰属意識を感じる [メンタルヘルス]

学校にいた頃、帰属意識を感じることがあまりなかった。
どの集団に所属すれば帰属意識を感じることができるかは潜在的に考えていたが、感じさせてくれる集団に巡り合えなかっただけのことかもしれない。

話は小学校時代にさかのぼる。
小学3年の時、難聴児関係団体のクリスマス会に初めて参加した。
そのクリスマス会は、宿泊を兼ねていることもあって、全国各地から難聴児とその家族が参加してきていた。総勢で数百人はいたのではないかと思う。私は、弟が小さく連れて行けないということで、一人で参加した。クリスマス会では、他の難聴児のお父さんに手品を教えてもらうなど楽しく過ごせたが、会が行われていない自由時間がつまらなかった。
自由時間に何をしていいのか分からなかったが、偶然にも、誰かを追いかけて遊んでいた同年代の女子を目の当たりにしたので、彼女たちの何人かに「私も仲間に入れて」と声をかけた。が、話が通じないのか反応がない。逃げられてしまった。当然ながら、彼女たちも同じ難聴児。話が通じないことに大変なショックを受けた。
宿泊する部屋を割り当てられていたが、同じ部屋になったのは、難聴児を兄姉に持つ子ばかり。聞こえる子だけで盛り上がっていたので、「ここは、自分がいる場所ではない」ということを感じていた。居心地が悪かった。
その日の夜は、ショックの大きさで一睡もできなかった。深夜、部屋を勝手に抜け出し、1階まで階段で下りていっては1階受付の様子をうかがったり、廊下の窓からネオン風景を眺めていた。光り輝くネオン風景をボーッと眺めながら「これから先、自分は、どの集団にも居場所を見つけられずに生きていくのだろうか?」ということを常に考えては、絶望感に陥っていた。
クリスマス会が終わり、遠く離れた自宅から母が迎えに来てくれた時は、「これで、やっと家に帰れる」と嬉しかったのを憶えている。当時の私にとっては、自宅が帰属意識を感じさせてくれる”最高の居場所”だったからだ。

クリスマス会で初めて経験した感情は、後々に経験する集団への帰属意識の感じ方に影響を及ぼした。
新たにどこかの集団に所属しようとする時、自分は「快」「不快」のどちらを感じるのかを所属の際の判断基準にしていたように思う。「不快」と感じれば、身体が自然と拒否反応を示す。そういう時は所属するのを止めたが、一度だけ「自分のため」と我慢して集団に所属したことがある。
それは、小学5年になる頃、カルチャースクールで開講していた絵画講座に生徒の一員として加わったことである。そこの講師とは、相性がよくなかったのだろうか、会話している間ずっと、ぎこちなさを感じた。難聴がある私の顔を見るたびに、いつも怪訝そうな顔をしていた。「何が言いたいのだろう?」「何か言いたいことがあれば、言ってくれればいいのに」と小学生ながらこんなことを思っていた。スケッチが上手になりたいという目標は達成できたが、講師と顔を合わせるたびに「ここは、自分のいるところではない」と常に思っていた。当然ながら、1年も経たないうちに退会。その頃は、学校に全くといっていいほど帰属意識を感じていなかったので、学校以外の場でも居心地の悪さを感じることは、精神的にも堪えると感じたからだ。

この時の経験を反面教師にしようと、中学校入学直後の部活動選びでは慎重になった。
入部先を決める前に部活動を一つ一つ見て回ったが、上級生が私に接する時の態度もチェックしていた。私が難聴と分かった途端に、見てはいけないものを見てしまったかのような表情でヒソヒソ話を始めたのが何人かいた。上級生のこのような態度を、先入観で「こうなんだ」と決めつけてはいけないのかもしれないが、極度の不快さを感じた。
入部先は、最後まで決められなかった。慎重になればなるほど、入部先の決定が遠ざかっていく。結局、茶道部に入部した。茶道自体に興味はなかったが、茶室をたまたま覗いてみたところ、上級生が「いらっしゃーい」と明るい声で迎えてくれたことが、入部しようという気持ちを後押ししたのだった。
茶道部では、茶道の基礎や礼儀作法を一から教わった。当時の私には難しすぎて完全にモノにはできなかったが、健聴者に囲まれた学校生活において、帰属意識を感じさせてくれた唯一の場所だった。それなりに伸び伸びと過ごせたのではないかと思う。
お茶やお菓子を買いに行く合間のお喋りが楽しかった。文化祭が近付くと、お客さんを迎えてお茶を出す練習に一生懸命になったりもした。中学3年生で部活動を引退する時は、卒業式では経験しなかった「悲しい」「寂しい」という感情を経験した。その経験は、10数年以上たった今でも強く記憶に残っている。

人は、日常の何気ない会話を通して、社会の一員であるということに誇りを持てているのかもしれない。そうすることで、帰属意識、自信や生きる意欲といったものも得ているのかもしれない。・・・と、そんなことを、書いていて思った。
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精神的にも肉体的にも疲労すること(10/31の記事に関して) [メンタルヘルス]

昨日投稿した「職場における情報保障の必要性を分かってもらうには」に関して。

周囲の人に分かってもらうために精神的・肉体的に疲労することは、健康を害することにもつながる。そうなるくらいなら分かってもらうのを諦めてしまう人もいる。諦めるという道を選ぶことで、思考を停止させる人もいる。

現状、聴覚障害者に関わる問題がなかなか進展しないと言われているが、これも、諦めにより、思考を停止させる人が多いことに一因があるのではないかと思っている。私も、一時期、思考を停止させていたことがあるが、「なぜ、自分の考えを言えないのか?」「なぜ、自分から希望を言えないのか?」と言われたことがある。

考えや希望を全部言えるような状態に持っていくには、相応の準備期間が必要。日常生活のなかで湧きあがったモヤモヤとした感情がベースになって”考え”や”希望”が言語化されるが、この感情が出てきた時は、たいがい聴覚障害に対する否定的な感情が心の中に生まれた時である。否定的な感情と向き合うのは難しい。「これ以上の感情の暴走は時間の無駄」と思った瞬間に、感情の波がスッとひいてしまう。これが、思考を停止させるということである。いったん停止させた思考にスイッチオンを入れるのに、膨大な時間がかかる。思考にスイッチオンしてからの作業もまた大変だ。過去に経験したモヤモヤとした感情を思い出し、感情のひとつひとつに適切な単語を当てはめていかなければならない。この作業を続けることで、”考え”や”希望”が言語化され、他人に伝わるものになっていく。

ただ、これを長いこと続けるのは、精神的にも肉体的にも疲労する。
私自身、障害と真剣に向き合うこと、周囲の人に分かってもらおうとするのが大変バカらしいと感じたこともあった。

今日のような不健全な社会においては、自らの健康を保つために障害と真剣に向き合わないというのも選択肢のひとつかと思う。身体を壊したら、病院のお世話になる必要があるが、残念ながら、聴覚障害者にやさしい病院の数はまだまだ少ない。医師や看護師とのコミュニケーションにおけるストレスも生じる。これを書いている現在も、障害と真剣に向き合わずにぐだぐだ言っているのが賢い生き方なのか・・・とふと思ってしまう。

だから、周囲の人は、”考え”や”希望”を上手く表現できないことを責めないでほしいと思う。
また、周囲の人に過度な期待をしないこともこれから生きていく上では大切なことではないかと思う。

(纏まりがないだけでなく、全然解決にもなっていない気がするが・・・)
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自分の存在価値を見出せない [メンタルヘルス]

「自分は不必要な人間なんだ・・・」

集団や組織に身を置いている人ならこれを感じた経験のある人もいると思います。

人は、自分が必要とされないことで、居場所を確保できないだけでなく、居心地の悪さをも感じるようになります。些細なことでも他人の目が気になるなど自然体でいることが大変難しくなります。

なぜそのように感じるのでしょうか。
感じる理由は人それぞれですが、私の場合、行動(処理)速度の遅さ、行動効率の悪さを周囲と比較して自分なりに認識したときに感じるので、集団や組織の同質性に起因しているのかと思っています。

行動(処理)速度の遅さ、行動効率の悪さには、内的要因と外的要因がありますが、内的要因には身体機能の低下(または、低下した状態が長く続いていること)があります。一方、外的要因には、周囲の理解(認識)不足、配慮不足があります。

私の場合、現在でも「聞いて判断する」など聞くことなしに成立しない動作が他人より遅いと思っていますが、それを自覚するようになったのは小学校高学年の頃のことです。
一部のリーダー格女子に「イライラする」「あなたなんか、ここにいない方がいい」など人格を否定される言葉を投げつけられたことがキッカケですが、当時は、自分の頭の悪さに原因があると思っていました。
当時の担任の先生は、「あっ子ちゃんの日記」(*1.)を授業の合間に読み聞かせするほど道徳教育に関しては熱心でしたが、行動(処理)速度の速さ、行動効率の良さで生徒を評価しており、表面上見えることだけが全て・・・と考えるタイプでした。
彼女自身、聴覚障害について無神経な言動を取ることもあり、違和感やプレッシャーを感じることがありましたが、当時の私には彼女に言い返せるだけの知識も技術もなかったので、ただただじっと耐えるしかありませんでした。中学校進学後も、「聞いて判断する」動作の遅さには悩まされたので、時々、自分はいない方がいいのではないかと考えることもあったほどです。

*1. 1983年に白血病で亡くなった少女の日記。映画化もされています。

経験のない方には分からないかもしれませんが、人格を否定される言葉を長期間にわたって言われ続けると、「自分は生きていてもしかたがないのでは・・・」「自分はここにいないほうがいいのでは・・・」とネガティブなことを考えるようになってしまうのです。当時の私は、幼なじみや遊び友達の死を通じて「死んだら何もかも終わりだ」と思っていたので、自殺までは考えませんでしたが、自分の存在価値を失ったことで自殺してしまう人の気持ちは何となく理解できます。(不謹慎かもしれませんが・・・)

このように、集団や組織から浮いてしまうのが原因で自分の存在価値を見出せなくなることがあるわけですが、管理する側の多くは、存在価値を見出せなくなることによる心理的影響を軽視しているように思えてなりません。
軽視している人達については、表面に出てこない部分をいかに想像するかといった力が不足しているのではないか・・・と感じることがありますが、これは個々が今までに過ごしてきた家庭環境や社会的背景も強く関係するので、不足している力を補うのは難しいと思います。
現状、私が対処法として考えるのは、心理学を少しでも勉強すること、(自分が属する集団や組織では)接することのできない人たちと交流し見聞を広げることの二つですが、特に、後者の方法では、気づきを得ることで想像力が養われていく可能性もあると考えます。

管理する側を一方的に責めているかのような文章になってしまいましたが・・・、もし管理する側に少しでも自覚があれば、存在価値を失ってしまった人、存在価値に確信が持てない人の心もすくわれるのではないか。そう思っています。
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メンタルヘルス不全の原因 [メンタルヘルス]

最近、研修で、職場のメンタルヘルス対策について勉強しましたので、メモ書き?のような感じで書きます。

研修を通して、皆の輪の中になかなか入れないこと、「自分が足手まといになっているのではないか」と常に感じることがメンタルヘルス不全の原因にもなることを学べたのは、大きな収穫でした。

私の周囲を見回しても、自己肯定感の高い人、自己評価は高いが周囲から見るとそれほどでもない人、ずうずうしい人はメンタルヘルス不全にならないように思います。一方で、自己肯定感が低く、職場における自分の存在意義について常に悩んでいる人はメンタルヘルス不全に陥る傾向があるように思います。(後者には、メンタルヘルス不全に陥る前に限界を感じて退職してしまう方もいますが・・・)

私自身、最近は、職場における自分の存在意義についてあまり考えることがなくなったのですが、これは「自己肯定感」が高まったからだと思っています。
現在の職場に配属になって2週間とちょっとですが、1.配属初日のうちに職場にすんなりと溶け込めたこと、2.「こんな自分でもやっていける」と確信したこと の二つが高い「自己肯定感」につながっていると考えています。

前の職場では上司に恵まれるなど職場環境にある程度満足していたものの、何か腑に落ちないことがありました。それが何か?を常に考えていましたが、答えが出ることは最後までありませんでした。転職して初めてその「答え」が見つかったのです。
その「答え」とは、価値観が周囲の人々と少しでも違うために"ありのままの自分"を出して働くことが難しい、ということです。
前の職場だけなのかどうかは分かりませんが、前の職場は「健常者」「表面上がパーフェクトな人(頭脳も、健康状態も、容貌も・・・)」が働くことを基準にして設計されていると感じました。
お洒落なだけでなく、持ち物やグルメにこだわったり、お金を派手?に使ったりしている人が多いのが印象的でした。元々が低所得世帯育ちの私は、持ち物やグルメに興味・関心が向かないので、飲み会や職場の雑談で、何にお金をどれ位使ったかやどんなモノを持っているかの話が出る度に話の輪に加われず、居心地の悪い思いをしていました。
色々な意味で周囲の人々が自分より高い位置にいる人に思えたことも、たくさんあります。
今思えば、価値観が彼らと合わなかったのでしょう。
「価値観が違うことを気にする必要はないのでは?」と思う方もいるかもしれません。が、価値観が少しでも違うということは、周囲の人々と人間関係を築く上で障壁になる原因になることもあります。特に、周囲の人々が同じような価値観を持った人で固められている場合は・・・。

自己肯定感の低い人に対して、「もっと自信を持ちなさいよ」等と励ましている人もいると思います。が、「自信を持ちなさいよ」といったところで、彼らには何の意味も成しません。
自己肯定感が低い原因を探った上で、一人ひとりの違いを尊重し合える環境作りをしていくのが望ましいと考えます。
環境作りにおいて一番責任を負わなければいけないのは組織の長ですが、組織の長の人間性が働く環境を大きく左右してしまうことも強く感じました。
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