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「とろい」「要領が悪い」と言われること(1/17修正加筆) [雑感]

今年もよろしくお願いします。

最近、妊娠8ヶ月目に入りました。産休まであと残りわずか。
お腹のなかにいる赤ちゃんは日々筋肉脂肪がついて力強くなっているのか、
時間に関係なく暴れまくっています。
暴れられると痛いですが、元気に育ってくれている証拠なので、安心します。
ここまで来ると、出産経験者で経過が順調だった方や知識のない方は「無事
に出産できるのでは」と思うのかもしれませんが、何があるか分からないのが
妊娠出産。母からは、私を出産した頃、同じ病院に入院していた母子が妊娠
中毒症で亡くなった話を何度も聞いていたので、何事もなく出産できれば・・・
と日々祈るような気持ちです。

さて、本題に入りますが、時々、タイトルのようなことについて考えます。

私は社会に出るまで、周囲から「とろい」「要領が悪い」という言葉をよく
言われました。
親に言われるのは我慢できるとしても、同級生(特に、女子)に言われるのは
我慢できない。
スクールカーストとでもいうのでしょうか、学校生活では同級生に比べて自分
の方が立場が弱いことを何となく自覚していたので、言い返すことはありません
でしたが。

皆にうまく合わせられない時に、「とろい」「要領が悪い」という言葉がよく
出てきたのですが、時々睨まれたりすると「あんたがいると迷惑なんだよ」
「役立たず」「出ていけ」と言われているかのような気持ちになり、同級生と
同じ場にいることがいたたまれなくなりました。
私ではありませんが、小学5年生の時の学校行事で、
歩くのが遅い男子をある女子が「何やってるんだ。早く歩けよ!」とドスの
きいた声でどなりつけるのを何回か聞いた時は大変不快な気持ちになりました。
自分がどなられたわけではないのですが、当時のクラスには彼女のような性格
の女子がいくらでもいたので、彼女たちの存在が恐ろしく感じたものです。

このような経験が何度も繰り返されると、「とろい」「要領が悪い」人は社会では
役に立たないのかと考えるようになってしまうのですね。
さすがに、今は言われませんが、ネット掲示板などで「とろい」「要領が悪い」こと
に対する悩みを読むたびに心が痛みます。

「とろい」「要領が悪い」と言われることは、言われる側にとっては自己肯定感を
ズタズタに引き裂かれるようなものです。
私は何度も引き裂かれているので、女性不信になってしまい、一時期は女友達が
いなくてもいいと考えていた位です。今も潜在意識ではそう考えているところが
あるので、「ふよこさんがいてくれてよかった」と言ってくれる女性は大変ありが
たいですね。

ただ、未来の我が子をどう育てるかを考えるたびに、かつて「とろい」「要領が
悪い」と言われたことをふっと思い出してしまい、腸が煮えくり返る思いです。
未来の我が子も私の遺伝を半分受け継ぐでしょうから、ある程度大きくなったら
「とろい」「要領が悪い」ことでいじめられないか、不安な気持ちが常にあります。
子ども時代は子どもらしく過ごせるのが一番ですが、どうしたらいじめられないか
を考えるとあらゆる側面から徹底的に対策しなければという焦りもあります。
生まれる前から、そんなことを考えていても仕方がないのは分かっていますし、
いじめっ子にしないのが大事だということも勿論理解していますが、将来出会う
かもしれないであろう陰湿な子供やその親の存在を考えると・・・。

「とろい」「要領が悪い」は裏を返せば、マイペースさ、経験不足のために慎重で
あること、何らかの原因で動作が鈍くなっていることの顕れですが、それらを言う人
(特に、女性)はそこまで考えが及ばないのでしょうか。
女性批判だと言われるかもしれませんが、私の経験では、思考力に乏しい女性は
学力が高くても「とろい」「要領が悪い」原因を突き詰めようとせずに、その場の
感情だけで言い立てたりするから厄介です。
このような女性の共通点といえば、肩書きやステータスにこだわる点
や損得勘定で人を判断する点にあるので、
彼女たちの考えでは、「とろい」「要領が悪い」人は社会では役に立たない、潜在的
にお金を稼げない人だと考えているから、排除しようとしているのでしょうか。
これは子どもも大人も関係ありません。

「とろい」「要領が悪い」の反対である「行動が早い」「要領が良い」は、確かに、
公私ともに評価されるポイントになっているように思います。
学校時代からそのように評価されている人は社会の役に立ちそう、潜在的なレベルで
お金を稼げそう(お金持ちになれそう)と考えられているように思います。

しかし、この二つを備えた人であっても社会の役に立ち、お金を稼げている人は
どれだけいるのか疑問です。
「とろい」「要領が悪い」と言われ続けた私でさえ、平均的な日本国民以上の収入
はあるわけですから、「とろい」「要領が悪い」イコール「社会の役に立たず、
お金を稼げない」というわけではないのだと思います。

そして、「行動が早い」「要領が良い」特性は永遠に続くものではありません。
個人差はありますが、身体の自由が利いて気力体力がみなぎっているからこそ、この特性を
持てるのではないでしょうか。
身体の自由が利くことそのものでさえ、当たり前のことではありません。
多くの人はおそらく「自分は病気にならない」「介護を必要としない」と思っているの
かもしれませんが、年齢を重ねて病気になり介護が必要な状態になれば、行動は当然遅くなり、
要領よく動けなくなるのではないでしょうか。

このように考えるからこそ、過去に「とろい」「要領が悪い」と言ってきた女子(女性)たちの
傲慢さには何年経っても怒りがおさまることがありません。


話が横道にそれますが、
仕事でいえば、営業は「行動が早い」営業マンは確かに喜ばれます。
私も普段の仕事では民間企業の営業担当者と接点があるので、お願いしたことに
対して早く対応してくれる営業担当者はありがたいです。
しかし、事務処理が雑だと営業担当者への信頼が揺らいでしまうことがよくあります。
特に、請求書の日付が昨年度の日付になっているとかあり得ないミスが相次いだ場合。
それならば、「とろくても、行動が少しくらい遅くても、要領が悪くても、正確に
処理してくれる」営業担当者の方がありがたいと思ってしまいます。
職場と相手先が離れていればいるほど、書類を受け取ってはミスを連絡して、再度
書類をもらって・・・の繰り返しで数日かかるのはザラにあることですから。
これは営業担当者だけでなく、事務職にも言えることですが。

おそらく、多くの人は学校生活でも仕事でも「行動が早い」「要領が良い」のは
誰にでも喜ばれることを暗黙のうちに身につけていると思います。
ただ、この二つはケースバイケースであって、そのまま個人、延いては組織全体の
利益に結びつくわけではありません。(そんなこと分かっているよとツッコミが入り
そうですが。)
研究開発や教育(特に、特別支援教育)など、長期的な視点でじっくりと取り組まないと結果が
見えてこないものは「行動が早くて、要領が良い」こと以上に、忍耐強さを必要とします。
私は教育関係の職場にいますが、現場の教員は「とろくて、要領が悪い」と思われている人でも、
仕事に真剣に向き合っている人であれば、評価されているように感じます。

あと10、20年もすれば、仕事のロボット化が進むと言われていますが、もしそうなったら、
「行動が早くて、要領が良い」ことが評価の大きな要素であった仕事は、誰がやっても同じと
考えられている(イコール機械化が進む)ためにますます失われていくのではないでしょうか。
逆に、忍耐強さを必要とする仕事の価値がますます上がっていくのではないでしょうか。

そんな時代がやってきたら、子どもも大人も「行動が早くて、要領が良い」ことに対する価値観が
変わり、「とろくて要領が悪い」ことの意味を真剣に考える、もしくは、メリットを見出そう
とする人が増えてくる可能性もあると考えます。
実際に、そのような人が増えれば、「とろくて要領が悪い」人を排除する動きは減るのかな・・・と
楽観的な見方もしています。


・・・かつて関わりのあった女性たちにここで文句を並べてもしょうがないのは
分かっていますが、どうしても我慢できなかったので、書いてみました。
支離滅裂な文章ですが、お許しください。

他に何か気づいたことがあれば、加筆修正します。

※1月17日午前11時32分、太字部分を修正加筆しました。
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発声・発音訓練に関して思うこと [雑感]

今年もよろしくお願いいたします。

昨年は環境の変化や様々な出来事が積み重なり、気づけば半年以上もブログから遠ざかっていました。
そのような状況にもかかわらず、アクセスしてくださっている方の存在には大変ありがたく感じます。

さて、今回は、発声・発音に関する記事です。
考えるのがつらいので、支離滅裂な上に、愚痴めいた記事になってしまいますが・・・。

過去に、発声・発音が不明瞭なことで受けた不利益(http://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2011-08-28)、発声・発音訓練が明瞭な発声・発音を必ずしも可能にするわけではない理由(http://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15)を書いてきました。

夫は難聴者とはいえ、明瞭に話せる方です。
彼も幼児期に発声・発音訓練を受けた経験があったので、発声・発音訓練の話は時々しますが、
夫の話を何回か聞く限り、「どこ」で「どの専門家」に適切な訓練を受けたかが訓練の成否に大きく関わってきているのではないかということを強く感じるようになりました。

私も夫も幼少期を過ごしたのは30年近くも前。
今と違い、インターネットがなく、口コミや本、テレビ(NHK教育の番組)が主な情報源。
私の場合は、難聴が判明してすぐに病院から地元のろう学校)を紹介され、そこで指導を受けましたが、発声・発音訓練に関してはゆるかった記憶があります。
「それならば、他の教育機関で指導を受けるべきだったのではないか」と思う方もいるかもしれません。
が、当時の乏しい情報源では、他にいい教育機関で指導を受ける考えが思い浮かばず、地元のろう学校で教育を受けるしか方法がなかったのです。
一方、夫の方はというと、口コミで評判のいい専門家の存在を知ったことで、上京して数か月間ホテル暮らしをしてまで指導を受けられたこと、地元のろう学校が発声・発音訓練では徹底していたことで、大きな成果をあげることができました。
当時の聴力や義母の執念もある程度は関係あったのかもしれませんが、適切な教育機関で適切な専門家に指導を受けたことが明瞭な発音につながっていることだけは確かです。

過去に得た知識も交えつつ、いろいろ突き詰めて考えていくと、発声・発音訓練を指導する立場である専門家は難聴児の将来に対して強い責任をもってやっているのかという思いが常によぎります。

私の場合、専門家が無責任だったのかもしれない。あるいは、能無しだったのかもしれない。
発声・発音訓練は現在は言語聴覚士の資格を持つ方しか指導できないようですが、どこまで考えて指導しているのかが気になるところ。

職場の人々もそうですが、世間の人々はこういう深い事情があることを知らないために、難聴者の発声や発音についてあれこれ言いたがるものですが、それだけはやめてもらいたい。

特に、つらい気持ちになるのは、同じ場所で同じ空気を味わっている人が自分より発声・発音が明瞭な場合、「なんで○○さんは明瞭なのに、ふよこさんは不明瞭なの?」というふうに周囲から見られること。

うちの自治体は、表面上は人それぞれ個性を大事にします、人権を大事にしますとうたいながらも、本音では「普通、平均の人」を求める雰囲気が強い。
障害福祉課等の一部窓口の対応についていろいろ情報を聞きますが、障害者に対して大変失礼な対応をしているにもかかわらず!
なんでこんな奴が採用されているんだ!と思うことも少なくありません。
(それ言ったら、私も「なんでこんな奴が採用されているのか」と思われているのかもしれませんね)
採用試験にもそれが表れているのか、難聴であっても口頭で明瞭に話せる人を強く求める。
私は筆談で採用試験に臨みましたが、筆談のスピードが遅いと不合格になるのではないか、バカにされるのではないかと内心緊張したものです。
(私の筆談スピードはかなり速い方ですが、発声・発音訓練を受けた人が話す速さには到底かなわないだろう・・・ということをどうしても思ってしまいます。)
それもあってか、過去に受けた発声・発音訓練の不十分さをどうしても思い出してしまうのかもしれません。

自治体に入って昇格も経験したことで、うちの自治体は難聴者でもちゃんと能力を見てくれているんだということがわかりました。
しかし、上位役職者から言われた「ふよこさんは事務処理能力は大変高いが、コミュニケーションには課題がある」という言葉がどうしても頭から離れず、こんなことを言われるくらいなら、過去に、発声・発音訓練をちゃんと受けるべきだったのではないかということも考えてしまいます。

それ位、結婚もした、昇格もした、給料も増えた、生活には困っていない・・・今が恵まれた環境であっても、発声・発音が不明瞭なことで受ける不利益から頭が離れることはないのです。

給料があがらない人も多くいるなかで、そんなことで悩むのは贅沢な悩みなのでしょうが。

そんなわけで、今年は現状に感謝しつつ過ごしたいところです。
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長距離通勤と仕事 [雑感]

前回の記事から5カ月近くが経過しますが、この間、引っ越しや異動を経験しました。

今年2月に都内から出身地である市に戻ったことで、職場に近くなり通勤が楽になったか
と思いきや、4月の異動で家から職場までの距離が遠くなり長距離通勤を余儀なくされて
います。
通勤距離も時間も、昨年都内に住んでいた頃とあまり変わらないですが、片道1時間半
かけての通勤は私の身体には堪える部分があります。

片道1時間半以上の通勤を長年続けている人にとっては何ということはないのかもしれま
せんが、片道1時間以内の通学・通勤を長年続けてきてこの先もそれが永遠に続くと
思いこんでいた私には厳しいですね。

片道1時間半以上の通勤だと、当然、仕事や生活でうまく工夫していかないと、可処分
時間や睡眠時間が削られます。
睡眠時間は翌日に影響が出ない程度にキープできても、可処分時間の捻出が難しくなり
ました。
独身時代は片道1時間半以上の通勤を全然想像したことがなかったので、長距離通勤の
乗り切り方について試行錯誤しながらも考える日々です。
電車では途中駅から座れるのでスマートフォン操作や読書に明け暮れますが、どちらか
といえば、ただじっと読むより手を動かすのが好きなほうなので、通勤時間がもったい
なく感じるのです。
次の異動は数年後になる予定。
早くも、「家に近い場所に異動させてくれれば・・・」と毎日思っては諦めての繰り返しです。

ちなみにですが、今の職場はまわりを山に囲まれているため自然豊かで環境良好です。
少し歩いたところには、畑が広がっているのが見えます。
田舎暮らしをしたい人には最高の場所かもしれませんが、交通の便は悪い、買い物する
場所が遠い、店の数が少ないなど、仕事や生活をしていくには大変不便な場所です。
日常生活の足として、車が欠かせません。

実は、私の家からなら1時間以内で通える職場はたくさんあります。
しかし、前職場の管理職(当時)の頭のなかで下のような公式ができあがっていたから
でしょうか、

「どのような仕事をするにしても、電話応対がかかせない。」
      ↓
「電話応対ができない聴覚障害者の場合、聴覚障害者に関係ない用件で
 他人が電話を受けたとしても、表面上、他人の業務量に負担がかかる。」
      ↓
「それならば、聴覚障害者は人数が多く余裕のある組織で仕事をする必要がある。」

人数にゆとりがあり誰か一人がかけても日々の仕事が回っていける組織として、
異動する前から、今の職場を推されていたのです。

電話応対できるかどうかを基準にして異動先の選定に結びつける発想は短絡的な気が
しますし、疑問が残る部分も多々ありますが・・・。

今の自治体の財政を考えると、電話応対ができない私には、最悪、今の職場しかない
状態なのかもしれない・・・、ぜいたく言っている場合じゃないなとも思っています。

ちなみに、今担当している仕事には、中小企業との取引も含まれています。
メールやファックスのやり取りに日数がかかるのはざらなので、メールやファックスで調整が
うまくできない場合に最後の頼みの綱となるのが電話です。
その電話ですが、仕事であっても、私は他人に頼みたくありません。
「電話ができない」ことを個性ととらえず、「自分ひとりでは何もできない」かのように
拡大解釈する健聴者がひとりいますが、その方のおかげで不快な思いをしたくないのです。
たかが電話かもしれませんが。
この4月から電話リレーサービスプロジェクトが始まったおかげで、サービスを利用して
自分の都合だけで電話をかけられるようになり(※)、今は他人に気を使わなくていい
のが助かっていますが、今後はどうなることやら。

※まだ相手の都合で電話をかけられる段階ではない(というか、相手の都合でかけられる
 サービスをまだ誰もが思いついてない?)ので、相手にしてみたら迷惑なところは
 あるかもしれませんが。

電話リレーサービスが今以上に普及して社会的認知度が上がれば、聴覚障害者でも電話
応対できることが証明され、仕事の幅が広がるかなと期待しています。
いや、実際にそうなってほしいんですけどね!
ただ、何年もかかりそうなので、一日でも早く、家から1時間以内に通える場所に異動させ
てほしいと思っていますがね。
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阪神大震災から19年。 [雑感]

今月17日で、阪神大震災から19年が経ちます。

3年前の東日本大震災は記憶してても、阪神大震災となると、記憶が薄れてしまっている方は
多いのではないでしょうか。
(もし気分を害した方がいたら、ごめんなさい)

と、いうことで、今回は阪神大震災をテーマにした記事です。

私は関東地方出身ですが、阪神大震災が発生した当時、建物がぺちゃんこに潰されている
映像や火が燃え広がる映像をニュース番組で何度も繰り返し目にする度に大きなショックを
受けたことを今でも記憶しています。
阪神大震災を大々的に報じた新聞記事や週刊誌は何度も繰り返し読みました。
震災発生まで知らなかった兵庫県の地理も、地図を何度も眺めることで「神戸市にAという区
があってこの区は○○市寄り」「△△市には××という町がある」ことが理解できるレベルに。

私の周囲で、関西に縁のない方は、「阪神大震災といえば、神戸」をイメージされる方が
ほとんどですが、被害が特に大きかったのは、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市、淡路島
あたりですね。
(他の地域でも被害が大きかったと聞いています。曖昧な書き方でごめんなさい。)

時々、被災者の体験談を読む方法で、「阪神大震災」というキーワードを少しでも頭の片隅に
残し続けていたつもりでしたが、神戸近郊出身である夫との結婚を機に、神戸近郊へ行く
機会が増え、阪神大震災があったという事実を強く意識するようになりました。

夫の実家は「震度7」を記録した地域にあります。
夫も「震度7」の経験者。大けがをしたそうです。
もし夫があの時に死んでいれば、私は夫に出会えていなかったわけですから、運命とは
不思議なものですね。
ちなみに、近くの公園で地割れした写真が、今も市のデータベースに保存されています。
夫の実家に泊まった当初は夜寝ていても、
「この瞬間に大きな地震が起きたらすぐに逃げられるのだろうか」
「この周辺で亡くなった人はどのようなことを想いながら亡くなったのだろうか」
などと考えてしまい、なかなか寝付けない。
当事者ではないのに、かつて激甚な災害を経験した地域に身を置いているというだけで、
雑念が頭の中をぐるぐる回るのです。

神戸近郊は、19年前に大きな地震があったことを感じさせない位、完全に復興して
います。街並みもとても綺麗。
個性あるデザインの家が多く、インテリア関係のお店が関東地方の大都市に比べると
充実していること(私の気のせいかもしれませんが)から、生活を楽しむ余裕がある位
経済的に裕福な家庭が多いのかなと想像します。
(現在の神戸市東灘区を撮影した写真が手元にあるので、載せたいところですが、
ファイル容量が大きすぎて載せられません・・・。ごめんなさい。)

何事もなかったかのように暮らしている人たちがいるなかで、未だに、阪神大震災から
立ち直れていない人たちもいるのではと思うのです。
同じ市内でも、あまり被害を受けなかった人などは何事もなかったかのように暮らして
いるが、一度にたくさんの家族を失った人は心の傷を負ったまま・・・街を通るたびに
そんな印象を受けます。

関東地方の大都市でもし阪神大震災レベルの地震が起きたら、様々な面で完全に
復興できるのだろうかと考えますね。
支援の手が差し伸べられるにしても、健常者優先で、障害者は後回し・・・になる可能
性もあるのかなとネガティブなことを考えます。

あまりたいした記事ではありませんが、19年前に阪神大震災があったという事実を
忘れてほしくなくて記事にしました。

大地震発生時の聴覚障害者に対する支援も、気になるところですが、それは整理でき
次第、記事にします。
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考えや思いを言葉にしにくい [雑感]

久々の記事です。建設的なことが書けなくて申し訳ありませんが、日々思っていることを書きます。

- - - - -
聴覚障害からくる制約について、日々考えはしますが、諦めモードに入ってきているからなのか、
最近は考えや思いを言葉にしにくいと感じます。
「諦めが肝心」とはいいますが、少しでも強い気持ちを持ち続けないと、今後、考えや思いを言葉
にできなくなる日がやってくるのではないか・・・そんな危機感を抱いています。

そのような日がいつかやってきた場合、考えられる”最悪の事態”は、自分が置かれている状況
に対して無頓着になり、自分の障害がどのようなものかを言おうにも思うように適切な表現が口を
ついてこない・・・といったものでしょうか。

たとえば、ノートテイクなどの情報保障を必要としているのに、なぜ必要なのかを健聴者に対して
適切な表現で言うことができなければ、情報保障を受ける権利を(健聴者によって)奪われてし
まうことがあり得るのではないかと思っています。
このブログでも以前に何度か書いてきた気がしますが(書いてない?)、聴覚障害について分か
ったつもりになっている健聴者ほど、タチが悪いです。現に、うちの自治体にこのような健聴者
がいますが、恐ろしさを感じます。なぜこういう思考回路になるのか?が分からない。
失礼な言い方ですが、存在自体が疎ましく感じます。
思ってはいけないことなのでしょうが、「早く消えろ!」と・・・。
このような健聴者に対しては、説明の仕方や反論の仕方についてこれまで頭を悩ませつつ、
何とか向き合ってきましたが、正直言うと、何か問題に直面しても、徹底的に話し合って解決したい、
分かってもらいたい気持ちはありません。
このような健聴者にエネルギーを費やせるほど、時間はありませんから。

私は、ノートテイクなどの情報保障が自由に受けられ、いつでもどこでも(相手の話が)分かることに
重きを置いていますが、私が何かをきっかけに自分の障害や情報保障の必要性を説明できなくなる
ほど能力が低下すれば、心ない健聴者に情報保障を受ける権利を奪われるのではないかということ
を危惧しています。こんなことを危惧するのは、内心では変なことだと自分では思っていますがね・・・。

本来は、健聴者にいちいち言わずとも、情報保障を受けられる環境が整っているべき。
どう言うかを考えることで、説明能力や表現力が鍛えられるという見方をする人もいるのでしょうが、
私としては「疲れる」という気持ちが一番大きいです。
健聴者にしてみれば、聴覚障害者の話を聞くのが「面倒くさい」「新たな視点を得るどころか、自分の
考えを否定された気分」なのでしょうが。

何も言葉に発せずとも、考えなくても、すんなりと受け入れられる状況がどんなに一番いいことか。
「言葉にしないと、伝わらないよ」と言われそうですが・・・、言葉にして何かを伝えようという気持ちが
強く持てるのは、相手に対する信頼感があってはじめてできること。

結局のところ、言葉にすることよりも、健聴者に何かを気付かせる、それしか方法がないのではない
かと思っています。
でも、何かを気付かせるには、聴覚障害者が何か命に関わる危険な事態に直面するか、命を落とす
など重大なことが起こらない限りないのでしょうね。
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生まれ育った市の教育環境に不満。 [雑感]

新居探しもようやく落ち着き、手続きがうまくいけば来年春には引っ越せるというのが現在の
状況です。

新居をかまえる可能性が高い場所は、私が生まれ育ったA市。

大都市ですが、私はその市は正直なところ好きでありません。

「じゃあ、別なところに引っ越せばいいのでは?」という声が聞こえてきそうですが、
新居を探すにあたり、夫の職場と私の職場の中間地点という条件だけは譲れず、その条件に
ぴったり合うところがたまたまA市だった。そんな理由で、A市に引っ越す可能性が高いのです。
もし私が専業主婦になっていたら、絶対A市は選ばなかったでしょう。
A市に住まいをかまえることは、当初、選択肢から外していましたし。

A市は通勤や生活面での利便性は大変高い市です。
しかし、長年A市で過ごしてきた私としては、聴覚障害者や聴覚障害児を取り巻く教育環境には
不満があります。
10数年も前からなので、市のアンケートがあった時には、教育環境の充実について要望を
出していた位です。

なぜ不満を感じるようになったのか。

10数年も前の学生時代に原点があります。

高校を卒業するまでは、A市に住む聴覚障害者としか交流がなかったことで、私は聴覚障害者
のコミュニケーション方法や学力について下のようなイメージを持っていました。

重度難聴者は、発音が不明瞭になる傾向がある。
一方、中度難聴者は最低限の発音指導でも発音の明瞭さを維持しやすい。
ただ、学力は難聴の程度に関係なく相当努力しないとつきにくい。

そのイメージが、大学サークル等を通して、様々な聴覚障害者と交流していくうちに覆されたのです。

私が出会った聴覚障害者は、重度にもかかわらず、発音が明瞭で、インテリ。勉強スポーツ
両方が得意で、自分にも自信がある。そんな人が多かったように思います。
(悪い点を挙げるとすれば、彼らの共通点として、人に優劣をつけたがり、自分より能力的に
劣っている人を見下す傾向があったように思います。)

発音の不明瞭な私は、彼らと出会うたびに、ほぼ同じ時期に人生を歩んでいる自分と彼らとでは、
「どこ」で「どの部分」で差がついてしまったのか・・・ということをずっと考えていました。
今でも、時々、考える位です。

学力は適切な方法でがんばれば身につくものですが、発音だけは本人の努力で
どうにもなるものではありません。身につけられる時期が幼児期~小学校低学年と限られて
おり、その時期にきちんと訓練ができないと、発音はずっと不明瞭なままなのです。


こう書くと、「発音が不明瞭でも、手話というコミュニケーションがあるではないか」とお叱りを
受けそうですが。

私自身、発音の明瞭さは、相手にいかに良い印象をもってもらえるかどうかという点で大変重要な
ことだと考えています。
サラリーマンやOLであれば、話す内容に中身がなくても、発音が明瞭であることで、いかにも説得
力のある話をしているかのように印象操作ができます。
また、自分に自信があるかのように振る舞えることもできます。
笑顔も大事ですが、「うまく話せないのに、笑顔」では人によっては軽蔑の対象になりやすいの
ではないかと考えます。

過去の記事とも重複しますが、私は、自分の発音の不明瞭さのために人生で数えきれないほど
の損をしてきたという思いが常にあります。

成人後、発音指導をしてくれる公的機関を探しましたが、A市には残念ながらありませんでした。
お隣のB市でたまたま見つけた公的機関は、本来なら、B市民ではない私は指導対象外ですが、
そこにいた社会福祉士の方に相談したところ、対象外の私でも発音指導をしていただけることに
なりました。
重度難聴者が成人後、発音を大きく矯正するのは大変不可能ということだったので、約半年間
での指導で終わりましたが。
担当の言語聴覚士とは、発音指導の合間にも雑談しましたが、A市の発音指導体制が整って
いないという現状をお話したところ、絶句されたことを今でも思い出します。

大都市であるA市であれば、多くの人が、聴覚障害者や聴覚障害児を取り巻く教育環境が充実
しているものというイメージを抱くのではないでしょうか。
残念ながら、そうではありません。

聴覚障害者や聴覚障害児の教育で重要なのは、適切に指導してくれる公的機関の存在、
指導者の熱意。
A市は、公教育のレベルが大変低いからか、A市全体の教育に対する意欲も低く、そのことが
聴覚障害児教育にも影響しているのだろう・・・と、他の地域で育った聴覚障害者の体験談を
見聞きするたびに思います。
家庭教育も重要ですが、公的機関や良い指導者の存在なくして、聴覚障害者や聴覚障害児
の将来を考えた教育はできません。

「別に、公的機関に頼らなくてもいいのではないか」という声も聞こえてきそうですが、
裕福でない家庭の場合、教育を近くの公的機関に頼るしかないのです。
それだけ、公的機関しか選択肢がないのです。

私は幸いなことに働けている身ですが、自分の子ども時代を思い出すたびに、A市で適切な
教育を受けられなかった過去に対する悔しさを感じます。
もし自分に子どもができ、その子どもに聴覚障害があることが分かったときは、A市で教育を
受けさせることは避けるでしょう。

適切な時期に適切な教育を受けたかどうかが、その後の人生を左右するからこそ、自分が
住む地域の教育環境が充実していることの必要性を強く感じます。
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お久しぶりです。 [雑感]

1ヶ月遅れですが・・・、今年もよろしくお願いします。
そして、4ヶ月以上もブログを放置していて申し訳ありません。

具体的なことはまだお話できませんが、ここ数ヶ月はプライベートで急激な変化があり、
何かと慌ただしい日々を過ごしています。

そのような日々のなかで、聴覚障害者として今後どう働いていくかは常に考えていますが、
うちの自治体がカネもヒトも足りないという状況(入庁した当時より事態が悪化している気
がします)なので、この先働き続けることに夢も希望も持てない・・・というのが正直な気持
ちですね。

そもそもは、うちの自治体を選んだ自分が悪いのですが・・・。

自分をなんとか奮い立てようとはしますが、内部事情を知れば知るほど、働くことに対する
動機付けができなくなります。

久しぶりの記事なのに、ネガティブな内容で申し訳ありません。

思いついたことがありましたら、また記事を書きます。

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障害福祉課に対する思い [雑感]

どこの自治体にも設けられている障害福祉課は、障害のある方なら自治体のなかでは最も身近に感じる場所だと思います。
耳の聴こえに限らず、日常生活で何らかの不便さを抱えている人なら、特に、障害福祉課に対しては、役所のなかでは(不便さを抱える人への)最大の理解者であることを心のどこかで期待してしまうのではないでしょうか。
かく言う私も、障害福祉課に所属する一人一人の職員に対しては最大の理解者であることを期待します。
このため、自分が勤務する自治体の障害福祉課の動向には大変関心を持っていますが、現在の障害福祉課に対しては、障害福祉課が発行する通知文書等を眺める限り、「障害福祉に対して本当に力を入れているのかな?」と感じる日々です。

私は学校関係の仕事をしているため障害福祉課とは業務では関わりがなく、業務内容はグループウェアの業務分担表や自治体HP、障害福祉課主催のイベント案内で知る程度なので、あまり深いことは書けないのですが、約3年前に知り合った障害福祉課専属のベテラン手話通訳士さんから時々教えていただく障害福祉課内部の実情には、愕然とさせられたことが何度かあります。

一つ目は、昨日のエントリーにも関係すること。
自治体が発行する広報紙や通知類で案内される各種イベントの連絡先や問い合わせ先には、電話番号しか記載されていないケースが多いと書きましたが、聴覚障害に関する知識を他の部局以上に持っていると思われる障害福祉課でも、電話番号しか記載されていない通知類がこれまでにも何度か出回りそうになったことがあるとか。
通知類を作成する段階で、ファックス番号やメールアドレスを記載するのが面倒くさい・・・という職員がいるそうで、周囲にはそれを咎める職員もいないとのこと。
障害福祉課から最終的に出される通知類は、手話通訳士さんが本業の合間にチェックしてくれているおかげで、ファックス番号やメールアドレスが記載されたものになっていますが。
もし彼女がいなかったら、電話番号だけが記載された通知類が最終的に出回ることになってしまい、聴覚障害者が疑問に思ったことなどを確認したり問い合わせたりする権利が奪われることになります。それって、大変おそろしいことでしょう?
二つ目は、いやいや仕事をしているのか、各種障害の特性や障害者を取り巻く現状に理解を深める気が全くない職員が存在すること。そのような職員は当然手話を憶える気はないようです。
私は一昨年、障害福祉課で昼休み時間終了後に行われる15分間だけの手話講習会(当然、講師は手話通訳士さん)に参加しましたが、いやいや手を動かしたり、手話通訳士さんに姿を気づかれないよう、柱の陰で手を小さく動かす職員の存在がなんとなく気になりました。

自治体が発行する冊子を読む限り、障害福祉課では、誰もが地域のなかで生き生きと暮らせる社会づくりや、障害者の地域生活を支える仕組みづくりには力を入れるつもりのようですが、そうしたことに力を入れるにしても、まずは、先ほど書いた「各種障害の特性や障害者を取り巻く現状」に理解を深めたり意識することのほうが大切。
その意味でも、障害福祉課はバリアフリー推進ではほかの部局の先導役とならなければならない存在なのです。
それだけに、日々の業務では障害者側の心証を損ねるようなことがあってはいけないくらい、障害福祉課の存在意義は重いものがあると思います。
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シンポジウムへの参加申し込みで感じたこと [雑感]

新たな大都市制度をテーマにしたシンポジウムが来月地元で行われることを市の広報紙で知ったので、今日、早速、参加をメールで申し込みました。
聴覚障害者が必要とする情報保障(手話通訳、要約筆記)は希望すれば受けられるとのことなので、一応、要約筆記の希望だけは伝えておきました。

メールで申し込んだ後、地元市役所のサイトで、シンポジウム開催の案内を伝えるチラシを眺めていましたが、眺めてて違和感を感じたことが。
それは、聴覚障害者だけを対象にした注意書きとして記されている「手話通訳または要約筆記が必要な方は、その旨お申し出ください」という内容の文言について。

なぜそれについて違和感を感じたのか?

まず、私の場合、シンポジウムのような多人数が集まる場では、発言者が喋っていることは文字にしてもらう方法で理解できても(手話だとよく理解できない)、発声・発音が不明瞭なため自分が言いたいことは手話である程度表現しないと伝えられない問題があります。
このため、本来ならば、自分にとっては要約筆記者と手話通訳者の双方がいたほうが望ましいのですが、「手話通訳または要約筆記が必要な方は」と明記されていることで、どちらかによる通訳を受けられたとしても、意思伝達の範囲が限られてしまいます。
手話通訳だけを受ける場合、自分が手話と口の動きで表現することは、手話通訳者が手話表現を音声に変換することである程度伝わるかもしれません。
しかし、自分が言いたいことを的確に伝えるには、話の流れや発言者が喋ったことの要点を的確におさえられてはじめて成り立つものです。
しかし・・・です。
的確におさえるには、私の場合、手話通訳でなく要約筆記が必要です。手話表現の読み取りが苦手だから。
手話通訳者が表してくれる手話表現を読み取ろうにも、私の頭のなかでは、「この手の動かし方=○○○という単語」というデータベースが完全に出来上がっていないのです。
このように、「発言者が喋っていることを聞いて分かる」こと、「自分が喋っていることが周囲に伝わる」ことを実現するための適切な手段が、私の場合は、要約筆記と手話通訳に分かれてしまっています。
もし「手話通訳または要約筆記が必要な方は」の表現が「手話通訳や要約筆記が必要な方は」であれば、違和感を感じずに済んだかもしれません。

今日感じたことについて、早速、市役所にメールしてみようと思ってチラシの「問合せ先」に何気なく目をやったところ、電話番号しかない・・・。これは、ひどい!!(怒)

・・・と、ここまで書いていてちょっと思い出したのですが、自治体が発行している広報紙や通知類には、各種イベントのお知らせが書かれていますよね。
で、そのお知らせの末尾には、連絡先や問い合わせ先として、電話番号しか載ってないケースが多くないですか?
余談ですが、私が勤務する自治体の障害福祉課では、専属の手話通訳士さんが(障害福祉課から出される)通知などの問い合わせ先にファックス番号やメールアドレスの記載の有無を念入りにチェックしていて、未記載の時は通知を作成した人に厳しく注文をつけて記載してもらっているとのことです。
(他の職場では、問い合わせ先に電話番号しか載せていないケースが多い)
問い合わせ先にファックス番号やメールアドレスが当たり前のように載るには、自治体関係者の聴覚障害者に対する強い意識が必要・・・とは思うのですが、広報だけでは難しいことを日々感じていることもあり、いったいどうしたら意識してもらえるのかということを今日の経験で感じました。
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他人の電話中の話し声が気になる [雑感]

うちの職場には、(私にとって)電話中の話し声が大きい男性が二人いる。
二人とも私の席から2~4メートルほど離れた位置に座っている。
彼らの声は低くて大きい。
私が装用している補聴器と彼らの声の相性が良いのか、彼らの声の存在には気づきやすい。
何かに気を取られている時であっても、彼らの声にはすぐに反応してしまう。
彼らが気になるとかそういうことではないのだけど(これを書くと誤解を招きそう・・・)、
普段、人の声に飢えているので、自分が聴きやすい話し声には「どんな話をしているんだろう?」と身体がうずいてしまう。

最近は仕事に余裕があるので、彼らの電話中の話し声が気になって仕方がない。
今日も、ひとりの男性が電話している間、彼に気づかれないように・・・と、口元をチラチラと見てしまった。
(あまりチラチラと見てしまうと、不審者扱いされかねないし・・・)

口の動きで読み取れたのは、下のとおり定型的な表現のみ。
(肝心なことがいかに読み取れないかということがお分かりいただけると思う。)

「え~、あのぉ~、△※○×□★・・・ということでしょうか?」
「はい、そうですね。それでは、×○□÷★▽・・・の確認をお願いしてよいでしょうか。・・・え~、すみません。では、よろしくお願いしまぁ~す。」

残念ながら、会話に含まれる重要情報は分からなかった。
彼らとは所属する課が同じでない上に業務上の接点がないことから、私自身、彼らが日頃仕事でどのような言葉に接しているのかを知る機会がないからだと考える。
(相手が日頃から使っている言葉をひとつでも多く知ることは、口の動きを読み取る上で助けになる。どれ位助けになるかは、人によってまちまちだが。)
しかし、電話のやり取りで「確認」「お願い」という言葉が出てきたことから、何か文書の確認を依頼しているということだけは分かった。

会話に含まれる重要情報はほとんど分からないのに、口元だけは懲りずに見てしまう。
それが毎日のように続いている。
声のない世界なんて考えられないな・・・と思う。
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