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発声・発音訓練が明瞭な発声・発音を必ずしも可能にするわけではない理由 [コミュニケーション]

昨年夏に、発声・発音が不明瞭なことで受けた不利益(http://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2011-08-28)を記事にして以来ずっと、明瞭な発声・発音ができない理由などを説明しなければ・・・と思っていましたが、そのように思う一方で説明したところでそれが何になるのかというネガティブな思いもありました。

以下、本題です。

乳幼児期から難聴のある人たちの多くは、乳幼児期から小学生までの間に、発声・発音訓練を受けています。
しかし、訓練を受けたことによる効果は、人によってばらつきがあります。

発声・発音訓練が、難聴児にとって明瞭な発声や発音を必ずしも可能にするわけではないのはなぜか、考えたことはあるでしょうか?
原因は、難聴児の残存聴力や補聴効果、家庭環境などいろいろですが、ここでは、三つの要因について順に説明していきます。

1.発声・発音訓練以外に必要な訓練もある

乳幼児期にある難聴児の場合、身につけている語彙の数がゼロであることから、発声・発音訓練以外に、一つ一つの言葉の意味を知って理解し運用できるようになるための言語訓練も必要になります。
なお、言語訓練では、将来、日常生活で困らない程度に書記日本語の運用能力を高めることに主眼が置かれています。
発声・発音訓練、言語訓練ともに、訓練に最も適した時期が乳児期から6歳位までと限られ、指導機関以外に家庭での訓練も必要になるため、乳幼児期にある難聴児は訓練に多くの時間を割いているのが現状です。(※)
また、二つの訓練を並行して進めていくのは、時間的、体力的にも厳しく、家庭にとっても精神的に負担が重いものです。
周囲の人の理解や協力がなければ、並行して進めていくのはおそらく難しいでしょう。

※この10~20年は、人工内耳装用や性能の良い補聴器が助けとなり発声・発音訓練にかかる負担が軽減されている難聴児が出てきていますので、「訓練に多くの時間を割いている」「時間的、体力的に厳しい」という表現は、過剰な表現だと思われる方もいるかもしれません。
しかし、人工内耳や補聴器が助けとなるのは、経済面で恵まれている難聴児に限られると思います。
また、そのような難聴児は一部です。
(経済的に厳しくても、親が”口頭で話せるようになること”に固執するあまり、人工内耳や補聴器を装用する難聴児も存在すると思いますが・・・。)
このことから、「訓練に多くの時間を割いている」「時間的、体力的に厳しい」という表現を用いています。
ご了承ください。

2.専門家なら誰もが適切に指導できるわけではない

発声・発音訓練の場合、国や自治体でフォロー体制が確立されていないことから、大きな成果をあげるには指導する側の指導方針や力量が大変重要になってきます。
指導を受ける場所である聾学校や福祉施設、大学病院等には、発声・発音訓練を担当する専門家がいますが、専門家なら誰もが適切に指導できるわけではありません。
私の出身地域に限っていえば、難聴の程度に応じた指導のできる専門家は大変少なく、高度難聴までなら指導はできても重度難聴となると難しいという専門家が多いように思います。
なかには、指導を最初から放棄している専門家もいるように思います。
指導を受けている場所に適切な専門家がいない場合は、他のところを探す必要があると思われるかもしれませんが、探すにしても大変な労力と時間を必要とします。
通学圏外に適切な専門家が見つかった場合、金銭的に余裕がある家庭では、わざわざ転居してまで指導を受けているほどです。

3.家庭での大量訓練も必要だが、効果は訓練量に比例しない

家庭での訓練は、指導してもらったことを反復する形で進められますが、家庭環境や家庭の教育方針によって訓練にかける時間が変わってくるように思います。
明瞭な発音のできる難聴者が子どもの頃に発声・発音訓練に費やした時間は、一説によれば、トータルで6000~7000時間といわれていますが、それだけの時間を確保できる家庭ばかりではありません。
なお、発声・発音訓練は訓練量に比例して効果が大きく出るものではありません。
言語訓練にも多くの時間を割く必要があることから、将来の進学・就職に困らない程度の言語力獲得を目標にする考え方、普通に会話できるようになることを目標にする考え方のどちらを重視するかによって、発声・発音訓練に対する比重の高さが変わってきます。
当然ですが、前者の考え方を重視する場合、発声・発音訓練をしても不明瞭さが残ることを考えておく必要があります。


以上のように複合的な要因が絡み合うことで、訓練したからといって、明瞭な発声や発音が必ずしも可能になるわけでありません。

この記事に関して、他に何か書くことが出てきましたら、また記事にします。
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伝える手段が文章に偏り過ぎるのはちょっと・・・ [コミュニケーション]

私は、様々な話を文章で伝える頻度が他人に比べて多いほうかもしれない。
職場では電子メールやメッセンジャー、プライベートでは電子メールやブログ(日記)を利用して伝えているが、
これらを介した伝達手段の場合、どうしてもまとまった文章を書く必要がある。
私は、文章を書くことには慣れているほうで苦にならないが、誤解を受けないよう、言葉を選ぶことには
どうしても慎重になる。これらの場合、口頭で話すのと違い後々まで記録が残るので、かなり意識して書くが、
いつも意識して書くことは精神的な面では負担になる。
さらに、文章は、会話と違って、相手からの反応が期待できないことも多い。
ブログでもそうだが、私は他人が知らないことも書いていると思う。
これが会話なら、他人が知らないようなことを話せば、「ふ~ん」「そうなんだ~」程度の反応が顔の表情から
読み取れるが、電子メールやブログ(日記)に文章として書いた場合、私から一方的に情報を投げつけている
ようなもの。相手の反応おかまいなく。
文章を読んだ相手はどう反応していいか分からないから、「・・・・・」と黙っているしかない。
それが「コメントしない」「返信しない」という形で表れるように思う。
相手の顔の表情が見えない、分からないことが文章を書くうえで一番つらいことかな。
使う言葉によって、文章が個々人に与える影響力も変わってくる。
ちなみに、現在の私にとっては、口頭で伝えるのが一番楽な方法。
長年、口頭で伝える方法に馴染んできた。
ただ、口頭だと、発音の不明瞭さから正確に伝わらない可能性がとても高いと思っているので、ここ数年は
何かを伝える時はいつの間にか手にペンを握ってしまう。「口頭で伝えたい!」という気持ちを封印しつつ。
このように、口頭で伝えたいけど、現実は文章で伝えるしか方法がないことに葛藤する日々・・・。
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飲み会の欠席について、理由を伝えてみた [コミュニケーション]

来月、課の忘年会が行われるみたいなのですが、もし行われるとしたら、欠席するつもりでいます。

課の飲み会における会話の流れはほぼ固定されており、中心的人物が喋ることに出席者全員が合わせるような形で会話が進行していく流れになっているため、会話に参加したくても入り込む隙がないのです。
今まで、誰か隣に座っている人と一対一で会話できるようなことが多くあれば、出席に対して前向きな気持ちになれますが、会話の流れの固定化で誰かと一対一で会話できる可能性がゼロに近いかもしれないことを考えると、自分が出席しても意味がないのではないか・・・と思ってしまいます。

おそらく他の聴覚障害者も同じかと思うのですが、私の場合、人の喋っていることがすんなりと理解できるのは、話し手が私の存在をしっかりと意識して話し方に配慮してくれた時のみに限られます。
話し手が配慮してくれるのは一対一の会話の時がほとんどなので、多人数での会話では話し手の配慮は期待できそうにもありません。

それに、人の喋っていることが分からない...というのは、精神的に疲れるものです。
健聴者は、飲み会のような場では、職場に関係した情報を共有したり意見交換し合うことで、出席者全員の一体感や連帯感といったものを深めていくことができるのでしょうが、最初から会話の輪に加わることができない自分は情報の共有ができないので、情報量では周囲の人と差がつくばかりです。
周囲の健聴者が100の情報を持っているとしたら、私が持っている情報量はおそらく1に達するかしないかといったところでしょうか。
情報の共有ができないことに加えて、差がついていることに対して、何も感じないはずがありません。
疎外感や劣等感、そして、悔しさ。
このようなマイナスの感情は、一定期間続けば、心身面に悪影響を及ぼします。
何か熱中できることで一時的にマイナスの感情を紛らわすことはできるかもしれませんが、
自分にとってプラスにならない飲み会に出席する限りは、生じては消滅・・・の繰り返しが続くたびに、
鬱々とした気分になってしまうのです。

と、いうわけで、今日、(もし行われることになったら)欠席したいことについて、理由を上司にメールで伝えておきました。

以下が、メールで書いた内容です。(少し表現を変えています。)

欠席を希望する理由を、以下にて説明します。

理由は、『会話の流れに関する問題』にあります。

××課員で構成される飲み会は、今までに参加した印象では、一つの長テーブルを全員で共有することで会話内容を共有するパターンができあがっています。

このパターンで会話が流れる場合、その場の会話や雰囲気を楽しむことが目的だからか、構成メンバーの話し方も聴こえる人だけが前提にしたものになりやすく、人の喋っていることがまったく分からない自分は蚊帳の外に置かれてしまいます。

人の喋っていることが分からなければ、「もう一度言ってください」と言えば済むものかもしれませんが、上述した会話パターンは、

(1)ひとつひとつの何気ない会話に連続性があること
(2)発言の方向があちこちに飛び散ること

の特徴があることから、話の途中で私が「分からない」「もう一度言って」等と言おうものなら、その場の雰囲気が壊れるように感じます。(これは、過去の経験から感じていることです)

一時、手話通訳や筆記通訳の派遣も考えましたが、上述した会話パターンに通訳者が対応できるのか疑問に思っています。
通訳者でさえ、発言の方向があちこちに飛び散ると、誰が喋っているのか分からなくなる位ですから・・・。

また、人の喋っていることがまったく分からない状態の下で何分間も過ごすことは、皆さんが思っている以上に精神面で大変負担がかかるものです。
程度としては、日本語しかできない人が、日本語がまったく通じない国で生活する時に感じるものと同程度のものですね。
少なくとも、飲み会で提供される食事の美味しさで吹き飛ばせる程度のものでないことだけは確かです。

・・・(以下、略)・・・



上司からの返事はまだありませんが、どんな人の話にもきちんと耳を傾ける、人間的に大変できた方なので、今回のメールはきちんと読んでくれると思っています。
(上司が人間的にできた人でなければ、こんなメールは出さないと思います・・・)

以上ですが、この記事が飲み会に参加したくない聴覚障害者の参考になれば幸いです。
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発声・発音訓練のことだけは書きづらい【大幅に加筆修正しました(8/28 23:27)】 [コミュニケーション]

申し訳ありませんが、昨日投稿した記事について大幅に加筆修正をしました。
(該当箇所は太字で示しています)

- - - - -
聴覚障害に関する話のなかでも、発声・発音訓練のことだけは書きづらい。

先日、発声・発音訓練が明瞭な発声・発音を必ずしも可能にするわけでない理由・背景を、庁内広報誌に載せる目的で文章化したが、文章としてまとめるのに数ヶ月間も要してしまった。
発音が不明瞭なことで過去に受けた不利益な経験が映像としてよみがえってきて、時には、加害者をぶん殴ってやりたい(不適切な表現かもしれませんが、心情を理解していただく上であえてこのような表現にしています)という心情に駆られることもあったからだ。
また、明瞭な発声・発音のできる難聴者のなかには、自分の発声・発音に自信を持っている人がいるが、そのような難聴者と関係者(家族・知人友人など)には明瞭な発声・発音ができないことを「努力不足」と片づけてしまう傾向があるように感じる。そうした人からは、私が発声・発音訓練に関する文章を書くことで、軽蔑の対象になるのではないかということも文章化する過程で考えてしまった。

明瞭な発声・発音ができない理由などをきちんと説明した文章が、現時点ではどこを探してもないために、「努力不足」と見なす人がいても不思議でないように思うが、私としては不愉快でたまらない。
文章の詳細は、庁内広報誌で公開した後にお話する考えでいるので、現段階では、「明瞭な発声・発音ができないことを、本人の努力不足にするな」ということだけを強調しておきたい。

かなり前の記事でも書いたが、私自身、発声・発音が不明瞭なことを自覚している。
自覚するようになったのは小学校低学年の頃だが、何かを話すたびに「こういう単語を自分の口で上手く表したいが、どのような感じで話すのか感覚がつかめないために上手く表せない」ということを漠然と思っていた。
自分の発声・発音の不明瞭さをなおしたいと思っていても、周囲には発声・発音訓練を指導してくれる先生がいなかった。(親には少しチェックしてもらっていたが・・・)
ちなみに、ろう学校幼稚部時代はどうだったのかと言えば、私の学年では発声・発音訓練を適切に指導してくれる先生がいなかった。
難聴児だけでつくる劇団に小学3年で所属した時、劇練習の一環として、少し発声・発音訓練をやったが、幼児期に適切な訓練を全くやってこなかったこともあり、自分のあまりのできなさに衝撃を受けることが多かった。
これをきっかけに、自宅で教科書を音読する時、「こういう文はこういうふうに声を出して読むのかなあ」ということを考えながら、意識して読むようになったが、幼児期に訓練をしなかった影響が大きいのか、音読は発声・発音技能を伸ばすことにおいては効果がなかったように思う。
当時は大きくなればなおるという程度にしか考えていなかった。
発音が不明瞭でも何とかなると楽観視していた。

が、その楽観的な考え方は小学5年の時の出来事をきっかけに打ち砕かれることになる。
小学5年の時、4学年下に二人の難聴児が入学してきたが、そのうちのひとりの難聴児(女子)が発音が大変明瞭な上に、彼女のお姉さんが同じクラスにいたことから、同級生からは発音の明瞭度を比較され、軽蔑されることも多かった。
同じ難聴でも発音の明瞭度でこんなに態度が変わるのかと思わされる出来事にも、何度か出くわした。
彼女のお姉さんは接するたびに、私のことをいつも冷やかな表情で見ていたように思う。
美人顔だったが、日々の何気ない態度からは氷のような冷たさを感じていた。
こんなことを言われたこともあった。

「うちの妹は補聴器をつけているけど、(あなたと違って)普通に喋れるよ」

他人からすれば何気ない言葉だとは思うが、いつも冷たい態度で接されていた自分としては大変傷つく言葉であった。
身内に難聴児(難聴者)がいるからといって、他の難聴児(難聴者)に理解があるとは限らないのだということをこの時ほど強く感じたことはない。
彼女の発音が明瞭な理由について、彼女の家族が学校側にどのように説明していたのかは分からない。
が、彼女のお母さんも世間体を大変気にする人で、通りすがりに会って話をするたびに「発声・発音が不明瞭なこと=悪いこと」「障害者は劣っているもの」という雰囲気を感じた。
いつの間にか避けたい気持ちが強くなっていた。
時々親切にしてもらうこともあったが、当時疑い深かった私は、遠くから彼女のお母さんの姿が見えるたびに電柱に隠れたり走って逃げたりということもあった。とにかく話すのが嫌だった。

この経験をきっかけに、発声・発音が明瞭な難聴児は(自分が発する)発声・発音の明瞭さについてどのように考えているのか、明瞭度が劣る難聴児の存在をどのように捉えているのかの二つを考えるようになった。
なぜこのように考えるようになったのかは分からないが、発声・発音が明瞭な難聴児が身近にいることで、自分の存在意義が奪われてしまうことを本能的に察知したからなのかもしれない・・・と自分では分析している。



余談になるが、難聴児の場合、小学校入学後も幼児期時代に引き続いてどこかの施設に通うことで発声・発音訓練を受けるのが一般的なあり方とされている。
このため、私のは特殊なケースだったのではないかと考える。インターネットで多くの難聴者の体験談を読むが、私のような特殊なケースは全くみかけない。
もしかしたらいるのかもしれないが、文章化されていないだけなのかもしれない。

とにかく、発声・発音に関しては、良い思い出がないのが事実。
事情を知らない人からは「努力不足」「能力不足」と見なされてしまう。これは現在でも変わらない。
近くに発声・発音の明瞭な難聴者がいれば、自分はその人と比較され(周囲の人の言動で感じることが多い)、「努力が足りないんだね」「能力が低いんだね」ということをあたかも言われているような感覚に陥ることがある。上から目線の人に対しては、何かを言われるたびに言い返したくなるが、言うだけムダと諦めている部分がある。

押しつけがましいと思うかもしれないが・・・、すべての難聴者には発声・発音の明瞭さに関係なく、自分の発声・発音が明瞭(不明瞭)な理由をきちんと説明する必要があると思う。
特に、明瞭な人からよく聞くのが「たくさん練習したから、発声・発音が明瞭になった」というものだが、これだけでは説明内容としては不充分。
「たくさん努力すれば、普通に喋れるようになる」という誤解を招きかねない。
私自身、その誤解が何度面倒に感じたことか。


このため、発声・発音訓練に関することだけは、私からもきちんと理由・背景を説明する必要性を日々感じているが、「これは違うでしょ!」などと否定される可能性も考えると説明しづらいよ・・・というのが正直な気持ち。
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伝えたいだけ伝えられないもどかしさ [コミュニケーション]

昨晩の暑気払いで、たまたま隣になった方に「伝えたいだけ伝えられないもどかしさ」について聞かれたので、下のことを筆談で答えた。

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私の場合ですが、筆談をしていてもどかしさを感じることはいつもありますよ。
(それは)伝えたいだけ伝えられないもどかしさ。

私は家族や(私の話し方に)慣れている人と話す時は、声だけで話すのですが、
やはり同じ内容を伝えるにしても、筆談で伝えるスピードと声で伝えるスピードは違いますよ。
声でなら、1分間で200~300字は伝えられると思うのですが、筆談だと、どんなに速くても1分間で100字が限界。

先ほどの自己紹介(※)で皆さんの話を聞きながら思ったのは、話の最中、「え~」とか間みたいなのがありますよね。
あと、話している間、話したいことが次から次へと出てきたら、思いついたままに話せますよね。
ところが、筆談だと、書く内容をあらかじめ決めておかないといけないという制約があります。作文している時の感覚に近いものがありますね。

その意味では、もどかしさをいつも感じますよ。

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※昨晩の暑気払いは、5つの円卓に分かれて座って談笑する形で進行。
 私が座った円卓では自己紹介から始まったが、自己紹介の時、私はたまたま手元にあったメモ帳(A6版
 サイズ)から破いた一枚の紙に要点を書くような感じで筆記し、筆記した紙を回し読みしてもらった。


ちなみに、「伝えたいだけ伝えられないもどかしさ」について聞いてきたのは、他の課の男性だが、彼はある事情から2週間程度筆談で過ごした経験を持つ。
筆談をしている時はもどかしさは感じなかったそうだが、今振り返ってみると、心のどこかではやはりもどかしさを感じている部分があったかもしれない・・・とのこと。う~ん、興味深いです。。。

今まで、他の聴覚障害者とはたくさんお話をしてきているのに、なぜか「伝えたいだけ伝えられないもどかしさ」が話題に上がることはなかった。

聴覚障害者には、発話・発音が明瞭で自分の意思を伝えるのに苦労しない人とそうでない人がいるが、後者の場合、発話・発音が明瞭でなければ手話で代替すれば何とかなると考えている人が多いように思う。
実際、私も発音が不明瞭なために、「声で話すのは諦めなさい」と手話によるコミュニケーションを奨められた経験が何度かある。
手話ができる人と話す時は、手話を積極的に使うが・・・、正直いえば、手話によるコミュニケーションにはあまり積極的ではない。手話を、口元の動きを読み取る上での補助的な手段程度にしか捉えていない。
手話学習歴が10年以上にもなるのに、手話独特の文法体系についていけないと感じることが多く、今もそのことで悩んでいるからだ。また、手話で何かを伝える時、相手がきちんと読み取れるのか心配になることもある。
だから、「伝えたいだけ伝えられないもどかしさ」は私としては日々感じる。
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職場の飲み会は気が重い [コミュニケーション]

職場の飲み会のお知らせを受けるたびに、気が重くなる。

今朝、2週間後に行われる暑気払いの案内文書が回覧されてきた。
参加するしないを回答する前に、否定的な思考や感情が頭の中をめぐらす。

職場では数種類の飲み会が定期的に行われるが、大別すると、課内中心の飲み会と職場全体の飲み会の2つに分けられる。
課内中心の飲み会は強制参加なので、課全員の参加を前提に、日取りが決められる。
都合の良い日と悪い日を回答していくやり方で決められる。参加するしないを考える余地なんてない。

暑気払いは任意参加の飲み会なので、別に参加しなくてもかまわないのだが、この2年間、任意参加の飲み会に全く参加していなかったからか、課内中心の飲み会が行われるたびに、お偉いさんと先輩に、「どうしてコミュニケーションに積極的になれないのか。もっといろいろな人とコミュニケーションを取りなさい。」と説教される。
私自身、この2年間で、知り合いが増えいろいろな人と話すようになったが、時間的余裕やタイミングの問題もあり、たくさんお話できているとは言えない。特に、話をもっとしてみたいと思うような魅力的な人ほど、家庭に何らかの事情を抱えていることが多い。そのような人は飲み会には基本的に参加しないので、仕事の合間の限られた時間で話すしか方法がない。
逆に、私のほうが話をしたくても相手からは避けられているように感じることがある(相手の反応が薄いのがそれだ。)。
ただ単に興味がない、面倒くさいだけなのかもしれないが、反応が薄いと話す気が失せてしまう。
一時期はコミュニケーションに対して自信が完全になくなったこともあった。
私は発音の不明瞭さをかなり自覚しているので、「発音が明瞭であればいいのに」と思うことも数え切れないほどあった。

そのような状況で、どうやってコミュニケーションに積極的になれとでも言うのか。
お説教する人達はよく喋るほうなので、自分が相手に話しかければ、相手からも自分が期待していたような反応が返ってくるとでも思っているのだろう。ただ単にコミュニケーションを取る時間が多ければ多いほど、相手と親しくなれるとでも思っているのだろう。
おそらく彼らはコミュニケーションで苦労した経験がないために、何の深い考えもなしに言っているのだろう。
だが、過去にコミュニケーションを拒否された経験がある自分としては、彼らの言うことは単純すぎて馬鹿げているように思う。
「いい年して、何言っているんだか・・・」と内心では不当な怒りや軽蔑感を感じることさえある。
お説教にはうんざりしているので、今回の暑気払いに参加すれば、コミュニケーションに対してやる気のある人と見なされ、課内中心の飲み会ではお説教されなくなるのではないかと考える。
よし、今回の暑気払いに顔を出してみよう。
そう思った瞬間に、「暑気払い」「参加」「OK」の単語が、驚異的なスピードで何度も頭のなかを反復した。

だが、案内文書に記されていた店のHPを見て不安になった。
HPでは、個室内に設置されているいくつかの丸いテーブル(8名ほどで囲める形式)の写真が大きく紹介されていた。
・・・と、いうことは、あるひとりの話を10名近くで聞かなければならないということなのだろうか?
これじゃあ、話の輪に全然加われないよ!
話したい人とも全然話せないよ!
あるひとりが延々と話すのを横でわけもわからず眺めるシーン。
何か面白い話があって皆が笑っているのを横目に眺めるシーン。
・・・など、今までの飲み会で繰り返し目の当たりにしてきた嫌なシーンをつい想像してしまった。
仕事が全然手につかない。2週間も先のことを考えても意味がないと思うのだが、否定的な感情が生じやすいイベントに対しては、自分の心が決して傷つかないようにと過剰反応してしまう。

飲み会の後半は皆のテンションが下がるのか、まったりとした空気が漂うが、そんな時に限って、中心的人物の話を聞くことに一生懸命になっていた人が、私のように話の輪に加われない人に声をかけてくれる。そんな時は嬉しくなっていろいろと話をしてしまうが、まったりとした空気になるのを待つ時間が長く感じられる。
普段、飲み会の合間にちらちらと時計を見てしまうが、そのような空気になるのは、飲み会がスタートしてから1時間半以上経過していることがほとんどだ。
1時間半以上も飲み食いだけに時間を費やすのはつらい。
沈黙に耐えて食べ続けていたら、お腹いっぱいになってしまう。
私自身、最近は居酒屋の食事が身体に受け付けないのか、ちょっと食べただけでも、胃の調子がすぐれなくなってしまう。家に帰ると、『わかもと』を飲まずにはいられない。
いくら付き合いとはいえ、本当に時間の無駄だなと思う。

そんなわけで、2週間後に行われる暑気払いには参加するしないの挟間で揺れている。
参加しなかったらしなかったで、またネチネチとお説教されるだろうから、参加したほうがいいのかもしれないけど、参加している間のストレスに耐えられるのかどうかも気になるところ。。。

は~、気が重い。。。
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苦手な人との人間関係 -その2- [コミュニケーション]

(「苦手な人との人間関係 -その1-」の続きです。)

先輩ご本人からは「自分は(どんなことに対しても)大変な負けず嫌い」という話を聞いています。
今回の件も、私が「心あたりはありませんか?」と聞いたところで、(先輩からすると)見つからないと思っていたホチキスがすぐに見つかったことが、先輩の気分を害したのかなとは思っています。
では、ホチキスがすぐに見つからなければ、先輩の気分を害しなかったかもしれないのか?
人によっては、今回の件はくだらない事かもしれませんが・・・、どのような状況であれば、気分を害しなかったのかということを考えることがよくあります。
何気ないひとつひとつの言葉で、気分を損ねるのは正直言えばこわい。
どのような言葉を言えば、他人の気分を損ねずに済むのかを考えるのは大変気が滅入るものです。
以前にも似たような経験をしているのですが、その時は我慢できずに「自分で勝手に行動しないでくださいよ~」ということを遠回しな表現で言ってみました。
そしたら、物凄い剣幕で怒鳴られました。その時の目が尋常ではなかったのは今でも憶えています。
ムダなお説教が30分以上も続きました。

今回のような経験は、子どもの頃から何度もしていますが、どのような言葉が相手にとってのNGなのかを考えるたびに疲れがドッと出ます。
ただ、相手との距離が短ければ短いほど、不当な扱いを受けるとコミュニケーション面の支援が受けられなくなる可能性があるため、相手には何も言えません。
子どもの頃は担任の先生に接し方のことで相談したり訴えたりしていましたが、今は誰にも相談していません。経験上、日本中どこを見渡してもこういった女性をきちんと注意できる人はいないと思っているので、諦めているところもあります。
他課の同僚に「どう?(先輩と)関係は上手くいってる?」と聞かれたら、「大変ですよ~」等と軽く愚痴を言うこともありますが。
(軽い愚痴が噂話に発展して先輩ご本人の耳に入ることもあるかもしれませんが、私はそれでもかまわないと思っています。)

みんながみんなそうではないと思いますが、こういった女性は、他人に対する過度な甘えがあります。
欲求不満を発散する方法として、他人を平気で痛めつけることが多いように思います。
過度な甘えがなければ、こんなことやらないでしょうから。
嫌な言い方ですが、いつも自分が・・・自分が・・・と注目されていないと気がすまないのかな?女王様気取りなのかな?とか思ってしまうんですね。
ただ、他人を平気で痛めつけたりしていると、思いがけない人からの恨みを買うような事態に発展することもあります。各種事件がそのいい例ですね。

こういった女性は自覚症状がないことが多いので、おそらくこの記事なんて読まないでしょうけど、もし読んでいたら、自分の言動を振り返っていただきたいものです。


(終わり)
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苦手な人との人間関係 -その1- [コミュニケーション]

この記事を読んで不快に感じる方もおられるかもしれませんが・・・、一人でも多くの方に知っていただきたいことですので、あえて記事にしています。ご了承ください。
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ここ数ヶ月間は、苦手な人との人間関係で疲れることが多いです。

これを読んでいる皆さんにも苦手な人はいると思いますが、私の場合、「気が強い人」「大変な負けず嫌いな人」「デリカシーのない人」は苦手です。
子どもの頃から全く変わっていません。
経験上、このような性質を併せ持つのは女性に大変多いと感じていますが、こういった女性には心底大変な思いをさせられたという気持ちしかありません。

難聴があることで、今までこういった女性に少なからずお世話になることがあったのは事実。
ただ、私が聞こえないことで他人のペースに上手く合わせられないとき、こういった女性は、私を貶めるのに、私の「難聴」という弱点(ここでは、こういった女性からみての”弱点”を意味します)を使うことが多かったように思います。
こういった女性はハキハキと話すだけでなく、私の不明瞭な発音も上手く聴き取るほど勘が良いので、コミュニケーションにおいては、周囲からは、聞こえない私の"介助者"という位置づけで見られることが多いです。
周囲の目には「障害者を上手くフォローしてくれている良い人」「人助けができる親切な人」というふうに映っているかもしれません。
社交的で人当たりが良いのもこういった女性に多くみられる特徴かと思います。
これは、子どもも大人も変わりません。

職場にいる先輩のひとりがまさにこんな女性なのですが、話をしていて疲れます。
機嫌の良い時は問題ないのですが、機嫌が悪い時に話をするとなると・・・気を使います。
言い方が突然怒ったような感じになったり。。。
(この二年間、ここには書ききれないほど色々ありました。)
最近も、こんな出来事がありました。
月曜日出勤してきて机上をみてみたら、定位置に置いている自分用のホチキスがない。
たかがホチキスかもしれませんが・・・、私は、仕事で紙文書を多く読むので、ホチキスで固定するなりして上手く整理・分類をしないと、仕事がはかどりません。ホチキスなしでは仕事の効率がガクッと落ちることを経験上体感しているので、過剰な言い方かもしれませんが、ホチキスがないということは、仕事の命綱を奪われたようなものです。

「ホチキス・・・ホチキス・・・ホチキス・・・」

ホチキスの単語を小さくつぶやきながら、机下に潜って探してもホチキスは見つかりません。
探している間、先輩の性格を思い出し、「もしかしたら先輩が間違って持っていったのではないか?○○さんは目の前の仕事に夢中になると、誰が所有しているかどうかに関係なく、近くにあるものならすぐ取ってしまうところがあるからなぁ。」という結論に達しました。
そこで、先輩には次のように尋ねてみます。

私「△△色のホチキスをなくしてしまったみたいなのですが、心あたりはありませんか?」
先輩「(自分の机上の文具箱からホチキスを取る)このホチキスのこと?」

先輩が差し出すホチキスには、見覚えのあるものがありました。
また、先輩は自分の引き出しに入れていたホチキスも見せてくれました。

私「(先輩の文具箱に入れられていたホチキスを指さして)それです!探してくださってありがとうございます。」
・・・と御礼を言ったところ、先輩からは次のような言葉を投げつけられました。

先輩「(睨みつけるような目で)私が勝手に取ってしまったみたいですね!」
私「え?」

いったい何が起こったのか分かりません。呆然とするだけです。


(「苦手な人との人間関係 -その2-」に続く)
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相手や物事を自分のフィルターにかけて見ていないか [コミュニケーション]

うちの課は今、人に関する課題について取り組んでいるところでして、私も業務別に担当者を代えて話し合ったりしています。
昨日も話し合いをしていましたが、話し合いの中で「モチベーションが低下した」と感じることが幾度かありました。

私の考えを真っ向から否定されることが原因ですが、真っ向から否定する人に対しては「この人には意見を言っても無駄なのではないか」「この人とは話し合うだけの価値がないのではないか」ということを思います。
そのような人には、思考のプロセス、原因や背景にまで踏み込んで話をしていますが、自分の見ている世界が全てと考えるのか、原因や背景を真っ向から否定するのみ。昨日話し合いをした相手男性も、まさにそんなタイプの人でした。
他人の考えを受け止めようとする人とそうでない人の違いで感じるのは、「相手や物事を自分のフィルターにかけて見ていないかどうか」ですが、相手男性の言動からは、「相手や物事を自分のフィルターにかけて見ている」ことを強く感じてしまうのです。
私の話で、彼にとって理解できない部分は、「私の考えることがおかしい」ということになってしまいます。

なぜ、そうなるのか。
私と彼とでは、思考方法が違います。
ある問題を目の前にした場合、私は、目の前の問題が実はどのような要素のつながりで起こっているのかを常に考えますが、彼は、原因と結果が1:1で対応する因果論的な考え方をします。
なぜ思考方法が違うのかということを更に考えてみますと、人生経験、思考の深さなどが関係していると考えるんですね。特に、大きいのが思考の深度。
思考の深さは、誰かに教わったから、読書をしたから、深くなるというものではありません。一つ一つの出来事に対していかに感じるかで、思考の深さが変わってくるものだと思います。ただ、感じるにしても、人生が順調に行っている間は何も感じないのが普通。一つ一つのことを疑う機会なんてありません。
このことは「相手や物事を自分のフィルターにかけて見ること」にも影響しますが、彼に対しては、他者に対する何気ない言動で、自分の言ったことで傷つく人がいる、不快になる人がいる・・・ということにまで思いが至らないのではないかということを感じてしまうのです。

自分についても、「相手や物事を自分のフィルターにかけて見ていないか」を振り返るキッカケとなる出来事でした。
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腹を割って話す場がないですね [コミュニケーション]

今回は、今年3月に書いたhttp://kobuta-090315.blog.so-net.ne.jp/2009-03-20-1(聴覚障害者の思いや考えを会社で伝えるのは難しい)に関して、思うことを率直に書きます。

会社に限ったことではないのですが、聴覚障害者と健聴者が腹を割って話せる場はどこにもありませんね。
手話サークルとかに行けば、腹を割って話せなくはないのでしょうが、そこにいる健聴者は聴覚障害者に理解のある方が多く、聴覚障害者寄りの視線で物事を見てしまうところがあるように感じるので、「聴覚障害者と接する習慣のない健聴者は(聴覚障害者を)普段どのような目で見ているのだろうか?考えているのだろうか?」が私としては大変気になります。

腹を割って話せるようになる最初のステップとして、健聴者には、聴覚障害者との会話を通して「聴覚障害者とはこういうふうに接すればいいのか」「こういうふうに会話すればいいのか」を体感していただくことが必要です。が、体感していただくには、対面による交流(ネットではダメ)を積み重ねることもまた大事です。でも、対面による交流ができる場はないですしね・・・。聴覚障害者との交流を通して「こういうメリットが生じる」ということを健聴者に知らせなければ、対面による交流は難しいのだろうか・・・。
私自身、前の職場にいた時、自分にメリットをもたらさない人との交流は「時間の無駄」と切り捨てる考え方の人を何人も見てきたので、「健聴者がどのようなメリットを望んでいるのか」は非常に気になるところです。考えすぎかな・・・?
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